穂歩練兵会

穂歩練兵会 王氏戴式六合心意門

王氏戴式六合心意門六代伝人:北西勝海氏の許可指導の元、武術の伝授を行っております。

こうふれんぺいかいとは
・生活の延長にある危機管理を学べます。
・実現していない未来の可能性ではなく、今現在のあなたの 可能性について学べます。
・闘争の技術を通して危機的状況の社会との接点、そして死 生観が学べます。
・身体の動きを通して、あなた自身の心と体を学べます

講習の大まかな内容です。
[戦略編]
戦略とは何か
・スローガンめいた概念
・最終的な目標点
・生活の延長としての兵法
格闘技・雑技・武術それぞれの違い
・歴史的な観点
・時間軸の違い
・技術的な違い
[戦術編]
戦術とは何か
・戦略でもなく技でもなく
・今すぐ実行に移すべき事
具体的な行動指針
・闘争の回避
・逃亡
・投擲による応戦
・兵器の選択
・兵器の使用方法
[拳法編]
・最後の手段
・仕掛けると言う事

08/10/2025

奇跡も魔法も無い(慈悲も無い)

昔は曜日が無かった。
もとい正確に言うなら七曜ではなかった。(平安時代には既にあったが一般的には使われていない)
「日曜日はお休みだ!」とどっかのカミが言いだして6日働いて1日休むが基本になった。
それが今や5日働いて2日休むが基本となり法律でも決められて、さも当たり前の常識のように流布している。
まだ西欧の太陽暦が伝わっていない時代、我らのご先祖様が今の我々と同じ感覚で毎日を過ごしていた訳はなく「休む」の概念も同じワケがない。

みんな週に2日休むのを「当たり前」と言う。
人ごときが勝手に作った常識で汎ゆる物事を推し量り当て嵌めて「当たり前」から外れると鬼の首でも獲ったかのように噛みつく。

じゃあおまえさん自分の心臓にも言ってあげなさいな。

「365日24時間一時も休まないなんて労基違反です!5日働いたんなら2日は休まなと死んじゃいますよ!」

そもそも自分の体がその当たり前に従っていないのに、その偉大な奇跡を目前にして矮小な常識で推し量ることの無謀さが滑稽でならない。
己の事も分かっていないから、その当たり前を作ってくれた先人たちの苦労にも気付けないままでいる。
人の苦労の上に胡座をかいて、さも分かってる風を装う者を剽窃者と言うのだ。
休まず働けということではない。仕事は適当(適切に当たる)が宜しい。
生きるために仕事をするのであって、仕事ごときで死ぬバカが後を絶たない。
若い後輩にはしょっちゅう聞く「あんたなんで働くのん?なんで生きるのん?」
その質問の答えを自分の頭から捻り出せないなら働くのは辞めたほうがいい。

ツライだのキツイだのは生きていれば当たり前に起きる事で働かなくても同じ事。
生きている限りは何処にも逃げ場など無く時間は問答無用に過ぎ去っていく。
若くてピチピチしてればまだ選択肢も需要があるが10年などアッという間に過ぎ去って気づけば選択肢も需要も無くなっている。
さあどうする?

じゃあどうすればい?

そんなものは遥か昔から言われていること。
真面目にコツコツやりなさい。高望みせずに身の丈にあった生活をしなさい。日々怠ることなく学びなさい。人には親切にしなさい。毎日体を動かしなさい。当たり前を馬鹿にせずちゃんとやりなさい。

25/07/2025

夏は暑くて汗をかく(当たり前)

黄帝内経を読み終えたので試みに熱中症について語ってみよう。

症例1)

階段3階の作業中、派遣で来ていた男性が倒れた。季節は暑さの残る初秋の頃だったと思う。典型的な熱中症の症例だ。

症例2)

横持ちの長いエレベーター2階作業で台車を押していた男性が倒れた。季節は初夏のあたりで熱気が籠もってはいたが日陰を歩いていただけで汗を書くほどの運動量もない状態だった。

いったい何が起きたのか?

我々が生きているこの環境には春・夏・秋・冬という季節の移ろいがある。
動物や昆虫・草花を観察してみよう。季節の変化に応じて毛が生え変わったり、変態をしたり、大きさが変わったり、色が変わったりする。
これはそうしようとしてしているのではなくDNAに刻まれたプログラムにより発現している現象だ。

では人はどうか?
極端な環境で生きている人たちは例外として四季がはっきりとしている地域に何世代も住み着いている場合は、その環境に対応した肉体の変化が生じたとしても不思議ではない。
汗腺(腠理)は寒ければ閉じるし暑ければ開く。
胃に食物が入れば消化を開始するし、異物が入れば嘔吐や下痢で体外に排出を促す。アルコールを飲めば肝臓が分解を始めるし、細菌感染すれば咳やくしゃみで追い出そうとする。
これら体の内部の働きや仕組みが正常に機能していれば何も問題は起きない。
だが正常に機能しなかったらどうなるのか?

症例1の分析

階段を走っている男性の体内では体温の上昇を受け取り汗腺を開いて気化熱による冷却を試みた。だが水ばかり飲んで塩分を補給しなかったために体内に水分を保持することが出来ず、いくら水を飲んでも直ぐに排出してしまうため体内のミネラル不足から起こる筋肉痙攣を引き起こした。
発汗時には水と一緒にナトリウムが流出する。
水とナトリウムの割合が良好であれば出てくる汗は塩味がする。
ナトリウムが不足してくると汗の味は無味に近くなるがそれでも残存してるミネラルの流出が止められないため筋肉を動かすのに必要な分のミネラルまでもが失われていく。
よって痙攣を引き起こす。これが一番よくある熱中症だが問題は症例2の方だ。

症例2の分析

普段から運動することがなく空調の効いた部屋で過ごしていた男性は空調が効いていない外気温の屋外で30分ほど台車を押して歩いてた。通常であれば外気温の上昇に合わせて汗腺が開き体温を下げるために汗をかくはずが長年汗をかかずに過ごしていたため、その機能が正常に働かず(汗が出ない)体内温度が上昇し続け非常に危険な状態に陥った。
コチラの男性の場合はそもそも汗が出ていなかった。

症例1の男性の場合は先ず日陰に移動して頭部を冷やし、水または麦茶と共にタブソルトなどの塩分を与え安静にして様子をみる。
症例2の男性の場合は汗が出ていないので塩分補給はあまり意味がない。冷たいものを飲ませるのもあまり意味がないと思う。この場合は頭部だけではなく背中や脇の下、首や鼠径部の動脈などを凍らせたペットボトルなどで冷やす。消化器官は体内のようで実際には体の表面なので肝心な筋肉や内臓・脳髄は冷やすことが出来ない。もし冷たい氷水を大量に与えたら胃・小腸が急激に冷え下痢を引き起こし症状を悪化させる。
外部から血管を冷やすことで血流に乗せて冷たさを運搬させようというわけだ。

通常の熱中症の予防法として最適なものは朝食で梅干し入りのおにぎりを一個食べておくことだ。これだけでもぜんぜん違う。汗はかくがゆっくりじわっとかくので途中で脱水症になりにくい。これが菓子パンや水だけだと、ものすごい勢いで汗が出てあっという間に脱水症→熱中症のコンボを喰らうことになる。(調味梅はよろしくない昔からあるちゃんと梅と塩だけのやつがいい)

汗が出ない事にたいしては、これはもう生活習慣の問題なので「季節に合わせて普通に過ごせ」としか言いようがない。暑いときはちゃんと暑さを感じる過ごし方をして、寒いときはちゃんと寒さを感じる過ごし方をして元々持ってる体の機能を普段から動かせばいい。

真冬に褌一丁で乾布摩擦しろとか夏の炎天下で坐禅を組めとか言うことでは決して無い。

朝起きたら「空調をいれる」のではなく先ずは部屋の窓を開け、埃をはたき、床を掃き掃除して、洗濯物をしながら朝食を作り、腹八分目で食事を摂り、その季節の旬のものを食べるようにするだけのこと。

本来持っている身体のギミックを長期間使わなければいきなり必要となったときにちゃんと動かないのは当たり前で、そもそも自分の体から季節が無くなっていることの方が異常だ。

黙々淡々と生きていれば健康を害することは滅多に無いはずで特別な運動も新奇な健康法や健康器具も要らないはずだ。家事仕事も普通にやれば十分な運動量があるのに何故わざわざ高いお金を出して何も生産しない運動をしにジムに通うのか?お金を使わないと動くことが習慣になりにくいからだとは思うが、ジムに通わなくても体脂肪率7%しかない私にはちょっと理解が出来ない。

10/06/2025

筋と肉と骨と力と物理学

「力むな!」と言うのが中々伝わらない。

そもそも力んでいる状態に対して自覚がない。
これは身体能力の問題ではなく頭の中の、具体的に言えば小脳の中の刷り込まれた習慣の問題だ。
力んでない状態がどんなものか分からないので幾ら武術を教えて「力まずに動け」といってもゆっくりふわふわやるだけで発力が成功しない。←それ力んでる。

「力」

この日本語が諸悪の根源じゃなかろうか。
力という単語の指し示す範囲が広すぎて意思疎通が難しい。
『力(①)を抜いて力(②)を出す』
これの①番と②番の違いをどう説明すべきだろう?

今現在の私が持っている知識と語彙を総動員して表現すると次のようになる。

『筋肉の緊縮状態を解き弛緩状態にしたのち、高低差を利用した重力自由落下のエントロピーを発生させ接触地面の反作用を以て体外方向に射出する』(蛇足ながら重量物を持ち上げる場合は『腕全体の筋肉の緊縮状態を解き前腕を内旋または外旋させることで肩周りにウインチ機構を構築し対象物を掌で固定した後、背筋側に引き付けて自身の重心上に乗せる』)

この説明を一回聞いただけで再現できるなら教師なんて必要無い。高度に発達したAIが人類に置き換わって世界を支配しているならこれで良いかもしれないが、我々生身のヒト科ヒト属は寿命が尽きる前に学習によって修得する他ないのだ。
なので口でいちいち説明するよりも動かしたほうが早い。
だがそれまでに学んだ「力」への思い込みが邪魔をする。何も学んでいない子どもなら問題ないが大人になるほど難しい。

四の五の抜かさず肉体労働をやれ

もうこの一言に尽きる。肉体労働でなくてもバランスよく満遍なく体を使うようなスポーツでも良い。全身を使って行う労働は力んでいるとうまく出来ない。力みを抜いて全身を隈なく巧みに使わないと自重より重いものは動かせない。以前話したラグビー部員が良い例だ。
武術における身体の扱いが正しければ肉体労働と互換性を持つことができる。はっきり言って太極拳を10年やるくらいなら引越屋を3年やったほうが良い。筋肉バカには引越業はできない。同じ様に気功バカにも太極拳は出来ない。引越業で身体のことを学んでから太極拳をやれば言わんとする「用意不用力」が分かるはずだ。

まあエンジンの話しをしたところで車はエンジンだけでは成立しないので、こんなものは空文に過ぎない。こんな話しを有難がる連中の気はしれないが何かのきっかけになれば役にも立つだろう。
発揮される威力などは後回しで良い。そんなものはごっつい棍棒を振り回せばいいのだし、もっと言えば世を賑わす犯罪者共は強靭な肉体を持って事に臨んでいないではないか。そんな修行に耐えられる根性があればそもそも犯罪に手を染めていない。一方でそんな修行をしなくてもできるはずの事から目を背けて修行に明け暮れるのは、それはそれで性根が腐っているのだからどちらも現実逃避していることに変わりはない。

道徳を伴わない商売は詐欺だ、商売を否定する道徳は寝言だ

現実主義的に武術をやるなら自らの一挙一投足が社会とどう関わるのかを自問すれば良い。
これが武術ではなく格闘技であれば既に答えが出ている。
一つの試合に関わる人々の数と、それに伴って動くであろう経済力をみるといい。その一つの試合で何人もの人が収入を得て命を永らえている。その内容が批判的なものだろうが病的なものであろうが、それで助かっている人がいる以上は武術オタクがとやかくいうことではない。寝言は寝てから言うものだ。
誰かの収入を生み出すことは犯罪率の低下に貢献する。逆を言えば生活困窮者が増えるほど犯罪率は増加する。犯罪が増加すれば武術の出番は増える。我々のお爺さんお婆さんは孫たちが武術なんて使わなくて済むような世の中になることを願って進んで犠牲になったのに、それを台無しにするような事を孫世代は望んでいる。それでも武術なぞをやりたいのか?しっかりと自問すると良い。
だからこれから武術を学びたい人はよく観察しなければならない。数多ある教室を表面的に見ただけでは良し悪しは分からない。兎にも角にも審美眼を磨くことだ。
師は言われた「武術バカには武術が出来ない」
そのため「肉体労働をやれ」に戻る。もちろん肉体労働だけでは会社は成立しない。
会社というのは事業目的があり、事業計画があり、営業部隊がいて、生産部隊がいて、販売部門があって財務・労務を司るものがいてやっと給料が払える物ができる。全部つながっているのだから全体に目を配ることができれば自分の身の処し方に気づけるはずだ。
良い会社かどうかは働いている人間を見れば分かる。良い教室かどうかもそこで学んでいる人間を見れば分かる。人として正しいかどうか?それをどう判別すればいいだろう?

判別する能力

それを得るのに必要なものは「運」だ。自分の努力だけではどうしようもない。あきらめろとしか言えない。

あなたが川に落ちたとする。体を大きく動かしてバシャバシャすれば気づいて助けに来てくれるかもしれない。だがあなたを助けるために川に飛び込んだ人が水泳が得意かどうかは分からない。あなたが藻掻く程に騒ぎが大きくなり集まる人も増えるが体力は急激に奪われていく。暴れるほど体は力んでいき水に対しての浮力を失っていく。バシャバシャせずに力まずに浮かんでいれば、運が良ければどこかの岸に接岸できるかもしれないが、運が悪ければ海まで流されて助からないだろう。或いは流されながら助け出せそうな人が通りかかったときだけ全力を出しても良いかもしれない。

どれが正解につながるかなど分かろうはずがない。地震も洪水も隕石も人を選んではくれない。
サンデル教授が指摘してるように「努力できる環境に生まれた事自体が運」だ。
選ばれたなどと自惚れるな、運良く救(掬)われただけだ。

29/05/2025

君は『説文解字』を読んだか

いわゆる「武」の文字が「戈を止める」という言説は実は後からのこじつけ、つまり後付でしかない。初出は「春秋左伝」だったと思う。漢字の成り立ちは後世に作られたものなら意味の組み合わせで出来ていると言っても間違いではないが、初期に作られたものはビジュアルの転写のほうが信用度が高い。そもそものオリジナルに遡るのなら文字自体がない状態では「意味の組合せ文字」は作りようがない。「武」は「戈を持って踏みとどまる人の姿」ではないか。

原初に立ち還れ

だからこそ学ばなくてはならない。手探りでいいので古い時代の今も尚通ずる古典に立ち返り人類の最初の姿を自分に重ね合わせる。
我々が今置かれている環境というのは46億年という積み重ねを持った地球の隅っこの方にあるたった500万年のその更に先っちょの2000年という歴史の爪の垢ほどもない寿命が精々80年ぽっちの中の僅かな煌めきでしかない。

『孫子』なら岩波一択。流行りのビジネス書など読む時間などあろうか?いや無い!『大学・中庸』『(※訂正)ソクラテスの弁明・クリトン』も外せない。なぜ生きるのか?と迷っているなら読んだほうが良い。今まで学んだものに疑問があるなら『方法序説』は必読。『史記』や『ヘロドトス』を読んでない奴はそもそも歴史を語るな!と言いたい。

司馬遷を超える歴史家は存在しない。己の道徳に照らして李陵を弁護し武帝の怒りを買っても信念を曲げず、宮刑に処されても執念で史記を完成させた。漢の宿敵である項羽や呂后も本紀に扱い公平さに於いても命知らずな点においても後世の歴史家は誰も真似ができていない。彼がいなければ三国志も大日本史も存在しなかった。福田 定一氏がペンネームに使った気持ちもわかる。

本から知識を得るためには別の知識と体験が要る

『本朝食鑑』を読む。江戸時代初期の食物・食品を『本草綱目』の体裁で紹介する百科全書と言えば分かりやすいかもしれない。著者の人見必大氏は医者で料理の仕方も書いてあるが、どちらかというと食べることで人体にどのような影響があるかに字数が割かれている。
一方では『素問』『霊枢』を読む。翻訳された家元誠一氏は西洋医学から入り、後に漢方・鍼灸医学を学び、更に古代漢字学を学ばれている。分からない箇所ははっきり「分からない」と断言し、錯簡・衍字についても素直に西洋医学的な見地を述べ「本当はこういう事ではないか?」と示されている。
人見氏、家元氏の両者を見比べた時に感じる大きな隔たりは20年前の私であれば感じなかったのかもしれない。本朝食鑑の医学的見地には明確な根拠はなく全てが文献の知識と経験則と感性に根付いている。それが悪いということではない。解剖が一般的でなかったその時代の医者であればそれが限界であることは認めざる得ない。だから我々は他人の過去の過ちを笑える立ち場ではない。
数年前に出会った人に「歴史の本を書きたい」という人がいた。その人に史記について質問をしたら読んでいなかった。書くための資料をどの様に集めるのかを聞いたら「本を読んで」と答えられた。話を聞けば聞くほど、その人の主張は「とても偏った歴史認識を世に広めたい」ということしか分からなかった。きっと本人は偏っているつもりなど微塵もないだろう。その時は言えなかったが「悪いことは言わない、お止しなさい」と言うべきだった。

・・・そのため船の出入は、経験不足の者やこの交易地に初めて入港する者にとって危険である。というのは上げ潮の時が来て一旦河水の逆流が始まると、繋留用の碇はその場に留まりきれないのである。それで船はその力によって翻弄され、流れの速さのために横向きにされ、浅瀬に乗り上げて難破し、小さな船なら転覆さえする。~第46節より~

『エリュトラー海案内記2』(東洋文庫)著者不明 蔀勇造 訳注

訳者の蔀勇造氏は翻訳の参照とするために実際に現地に赴き船に乗り波の具合を確かめ、地元の人に話しを聞いている。原本は失われており10世紀と14~15世紀の写本が現存し各ヨーロッパ言語の現代語訳と照らし合わせながら日本語に置き換えていくというのは気が遠くなる作業だと思う。先に述べたように言葉は時代とともに変化し本来の意味から離れている。日本語は他に村川堅太郎訳注版があるが解釈が異なるため書いている内容も微妙に違う。当然だろう。
習得の難しい他言語を学び、そこから更に古い時代の言語を学び直し現地調査をして言葉の意味を類推しながら他言語で書かれた諸先輩の文献を読み込み、それだけやっても推論に甘んじて自身の訳を世に出すしかない物を我々は冷暖房の効いた場所で受け取ってしたり顔で「これぞ真実!」などと喧伝しているのだ。

江戸時代の識字率

がそんなに高かった筈がない。具体的かつ正確にに言うならば「江戸時代の主要都市部の識字率は高かったが主要都市を離れるほど識字率は下がっていく」が正しい。
明治政府がちゃんと仕事をしていたので記録がしっかり残っている(国会図書館の文部省年報を見よ)滋賀県と群馬帝国は識字率が高く、鹿児島県は異常に低い数字が記録され、どの地域においても女性の識字率は男性より低い。私自身も「女だから大学に行かせてもらえんかった、車の免許も取らせてもらえんかった」という話は聞いていたし、20年ほど前に読み書きができない70代の職人さんの話しを聞いている。「大工は読み書きできるはず」という幻想も私自身が家具工作をやっているときに「文字ではなく記号として見ている」と気づいたので厳密な読み書き能力とは違うことが分かった。もっと言ったら”字は読めても理解が出来ない”という現象を識字能力に含めるか含めないかという問題も絡んでくる。これを読んでいる五体満足なみなさんも文字を読むのに体感したうえで耳で聞いているから分かるという前提を見逃していないだろうか?

久方振りにつらつらと最近読んだ本をネタに書き綴ってみた。有り難いことに30人ほど固定の読者がいるようなので生存報告も兼ねて取り留めなく書いた次第である。

25/01/2025

画材の歴史が知りたい。

「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯/ 原タイトル:The Knife Man (河出文庫) (文庫) / ウェンディ・ムーア/著 矢野真千子/訳」

18世紀のイギリス。
顕微鏡が世に出てきて100年足らず。
微生物は発見されていたが細菌はまだ認知度が低く消毒の概念もない時代に類まれなる才能で数え切れない数の解剖と手術を行った医者がいた。
正式な教育も受けず、いやそもそも医者になるための試験も口頭面接しか無かった時代の話、底なしの好奇心と探究心で以て、それまで迷信に満ちた運任せの医学を科学へと変容に導いた男の名はジョン・ハンター。
彼がいなければ医学は「おまじない」のままだった。

だが人類の長い歴史の中で彼だけが特別だったのだろうか?

方や古代中国に於いては「黄帝内経」を読む限り人体の解剖や手術をしたであろう形跡に触れるにつけ、医学というものが社会的には常に断絶と根絶の危険を孕んでいたと感じる。
すべての人がジョン・ハンターのように人体・・・あるいは人体だったものに対してドライな感覚を持てるわけではない。
討たれた子路を哀しんで醢を食べなくなった孔子のように故人の遺体は残された者にとっては特別な意味を持つ。
医術を施すときに下手を打てば技術や記録を残せずに誅殺される可能性があり得る。

そう考えるとジョン・ハンターは時代と場所に恵まれていたとも言える。
科学革命が成された後であること、大航海時代からなるグローバリゼーションが起こっていたこと、教会の権威が落ち始めていたこと、自分をプロデュースしてくれた兄がいたこと、同じような科学的嗜好を持つ同志がいたこと、そして何より詳細で緻密な描画ができる画家がいたこと。

ヤン・ファン・リムダイクがいなければ解剖で得られた知見は文章で残すしか無く、正式な言語学習をしていないジョン・ハンターでは文章だけで未知の発見を表現しても世間から認められることは無かったであろう。
挿絵があったからこそ成果が残った。
そう考えると全てを漢字だけで残した「黄帝内経」の時代は描画の方法や道具、そして画家に不足があったと思われる。
詳細で緻密な絵を描けなかった(方法がなかった)から漢字をたくさん作って表現したのではないだろうか?
例えば「手」は…
指、掌、腕、肘、肩
例えば「足」は…
趾、踏、踵、脛、膝、脚、腿
他にも皮膚の「皮」と「膚」はそれぞれ表面の一枚とその下の二枚目を意味していて更にその下に脂と筋があり骨があり、骨の中に髄がある。
人間は米(穀物全般を指す)を食することで、その植物から何某かの生きるのに必要なものを取り出す。
取り出す過程は胃の中に貯めた食物を脾臓の力で粥状にし、それが小腸で吸収されより細かな精となり肝臓に移動して血液と混合して心臓に移動する。肺では空気から取り込んだ氣を血液と融合し心臓の力で全身を駆け巡らせる。だから精にも氣にも米の字が入っている。精と氣を取り除いた物は大腸で大便に腎臓で濾されて小便として排泄する。
(米は植物としての名称としてではなく生物が生存するのに必要な”何か”を表現したのではないか?それが小さすぎて観察できなかったから氣や精と言ったよくわからない概念になった)

表題のジョン・ハンターの本を読んだからこそ分かる。
解剖をやっていないとこんな事は知り得ようがないことが。

黄帝内経の作者達もジョン・ハンターの様に人体の色々な組織を味見したのではないか。
当然人間だけではなく動物の解剖も散々やったと思う。
比較実験もやっただろう。

だがその結果を話しても受け手が理解ができないのなら「数ある迷信の一つ」と区別が付かない。
科学も宗教と実は変わりがない。
なにか一つの事実を信じるときに根拠となる思想が必ずあるはずだが、その根拠と向き合うときに人は見たくない自分と向き合うこともある。
そしてそれは外部からは強制・矯正はできない。
だから医術や武術は秘伝になる。
理解できない人に話すだけ時間の無駄だし社会的にもリスクだけが大きい。
李衛も云う「たとえ迷信でも人を動かすときには役に立つ」だから不思議な力を否定はしない。

短く見積もっても2500年以上も昔。
有用な製紙法も確立されておらず記録は竹簡に小刀で文字を刻んでいた。
通貨も統一されておらず、暦も一定ではなく、夜は明かりが無く、当たり前だがスマホも無いしコンビニもない。
そんな時代に行う解剖や手術は当然素手でやることになったであろう。
感染症は当たり前のように罹っていただろうし、一つの病を克服するのに数え切れない犠牲を出しながら実験していたであろう。
その成果物を我々は「不思議な魔法」のように受け取っている。
曰く「西洋科学とは違う解明されていない未知の力」だとか、、、。
もしそう思っている人が居るならはっきり言おう。
それはあなたに理解する能力が足りないだけだ。

08/10/2024

エマニュエル・トッド氏がユヴァル・ノア・ハラリ氏を批判的に扱っていた理由が良くわかった。『サピエンス全史』は『銃・病原菌・鉄』の二番煎じ感が否めない。
もちろん30年近く昔の著作なので詰めの甘い所もあるし当時から見て未知の領域だった部分もあるので、今読めば「ここは違うんでないか」というところはある。それでも私が十数年前に「すげぇことを思いついたぜ」と自惚れていた内容に対して先鞭をつけられていたことに変わりはなく、しかもジャレド・ダイアモンド氏は多言語を操り現地で生活し進化生物学を専門として医学にも造詣がある上で全くの専門外となる文化人類学・歴史科学でピューリッツァー賞取ってしまうという、何処をどう取っても私ごときには勝ち目がない。

何故、中国では産業革命が起きなかったのか?2000年前辺りであれば中国は間違いなく世界で最も科学が発達していたと言える。『銃・病原菌・鉄』ではその理由を政治的な統一に求めている。果たして本当にそれだけだろうか?と言う疑問がある。あんなに広い国土で現在でさえ取り締まりが難しい国なのにインターネットもない時代に、新しい技術を抑制する政治的な力が積極的に働く場面が想像できない。産業革命が起きなかった本当の理由はもっと人間の根幹的な欠陥、例えば"怠惰性”が理由ではないかと思う。それかその両方か。そして現在の中国で、よくも悪くも言うほど人民が政府に反乱しないのもこの怠惰性が原因ではないか。

人間は基本怠惰である。
楽な方に流れるし、考えなくて良い方に進んでいく。一つの文字の解釈も、その根幹に遡って紐解くよりも場当たり的で気持ちの好くような一般受けする方を選ぶ。それが後世に常識と伝わってしまい後戻りできない現象を我々は日常に見ている。
寿司屋で「おあいそ」と言ったり「一本締め」と言いながら「一丁締め」をやったり。
「これが正しい解釈だ」と言いながら実はただの駄洒落であったという事が往々にして一般化している。

みんな大好き【勁】もそのうちの一つだ。

勁を紐解くにはまず【巠】を理解する必要がある。
巠は「縦方向」を表す。縦は上下方向、南北、略字の【𢀖】は時代が下って本来【聖】の略字であった【圣】と混同され、いつの間にか消えてしまった。【巠】とよく似た字に【坙】がある。こちらは地下水脈を意味しているが、これも縦方向の意味がある。正直似すぎていてややこしい。
これらの情報から【勁】が「縦方向の力」であることは何となく理解できる。南北の縦(経度)と空間の縦(上下)で言えば後者になることに疑いはない。古代の中国に重力の概念がどれだけあったかは分からないが、
1・自然な状態で何も支えのない物体は下方向に向かって落下していく
2・弾性を備えた物体は地面に激突した時に上方向に跳ね返る
この自然法則自体は観察されていたことであろう。水が低きに流れるように我々が怠惰であることを表すように。

だから【横】には「無理やり」の意味がある。
横暴、横着、横柄、といった自然な法則に逆らうというのは自然な縦の動きではなく人為的な水平方向の動きになる。そうすると四把の最初が「横拳」であるというのが武術として考えた時に制作者の含蓄に思いを馳せざる得ない。

最も簡単な発勁方法
1・何でも良いので指で掴んで手に持ってみる
2・腕を水平にして
3・指を開いて掴んだものを落とす
この時に落下していく方向で働く力が【勁】である。
この一番簡単に出せる力を「増幅」と「制御」するのが武術の訓練目標であり越えるべき最初のハードルでもある。最初のハードルだから最終的な終着地点ではない。みんなここに時間を掛けすぎ。自動車教習所でエンジンの仕組みを延々と話し合って一向に一般道に出ないのと同じことをしている。いつまでそんなことをしているのか?こういったことを「目的と目標がひっくり返る」という。

昔とある現場でバイトでやってきたラグビー部と一緒に仕事をしたときの出来事。
彼は大学一年生で春休みになると大学側から慣例で修行がてら来させられると教えてくれた。腕は私の太ももぐらいあり筋骨隆々でがっしりしていたが一緒に運ぼうとしたタンスが持ち上がらなかった。「肩の力を抜け!」と言っても力の抜き方を知らず何度も腕の力で上げようと必死になっていた。仕方がないのでベテランの女性スタッフを呼んで一緒に運んだが「何でそんな重いもの持てるんですか!?」を驚いていた。逆に「何で持てないんだ?」というのが正直な感想だが、これも【勁】だ。

【勁】は不思議な力ではない。そんな魔法は存在しない。
筋肉を鍛えれば重いものが持てるという勘違いは【勁】に不思議な力を求めているのと何の違いもない。
もっと室伏広治先生を見習え!

15/08/2024

不思議でならない。
母拳たる四把を差し置いて何故五行拳がこんなに持て囃されるようになったのか?
誰かが無意識かつ意図的に誘導したとしか思えない。
そもそも四象を表す動きがあって五行を表す動きが無いはずがなく河南の心意六合にも五行の概念があるはずだ。
河南ではそれをどう表現しているのか?
みんな文献の読み込みが足りない。前提とする文化や環境が根本的に違うのに自分の人生の主観でしか考えていない。
色々読んで調べて気づいたことはあるが公に発表するのは躊躇われる。
本来の五行とは何か?そこに確信はあるが成立した年代にタイムスリップして作った本人に聞かないと確かめようがない。
だが現在伝わる戴氏心意の五行拳を作った人間はある程度絞ることができる。
おそらく二人いる。
元にしたテキストも特定ができる。
初期心意とは別の概念が入っている。
初期心意のまま考えれば全ての技法が円環する。

09/07/2024

武術が家業や人生や社会の中心になる筈がない。
戦争のための戦争は存在しないし、軍隊が中心となる国家も安定して長続きしないのは道理に照らし合わせれば当たり前すぎることだ。
もし本気でそんなものを信じているとしたら、あまりにも病的だし武術の本来の目的からかけ離れていて本末転倒じゃなかろうか?

昔、派遣されたパチンコ店でリーダーの男性が朝礼時に諸注意でこんな事を述べていた。
「もし乱暴狼藉を働くお客様が居たなら、すぐに助けを呼んでください。スロットの『北斗の拳』の世界があると本気で信じている人、本当に居ますから」

戴一族内の武術の伝承者は初代隆邦以降は必ず二名存在する。
だから一般に思い浮かぶ一子相伝というものとは事情が少し異なる。
始祖隆邦は別として2代目以降で家督を次ぐものがイコール武術の伝承者であるというのは必ずしも正確ではない。
結果的に武術と家督の両方を相続することはあるかもしれないが、武術の伝承者は家督相続の候補者からは率先して外されると考えるのが自然だ。
優先すべきは一族全体の繁栄と生き残りであり武術ではない。
君主を守る盾となり剣となるのが武術継承者の族内における役割だと考えれば理解しやすい。
争乱に巻き込まれた時、政治的に不味い立場になった時、一族全体を守るために命を落とす役割があったなら武術継承者は家督の相続者になれないのは当たり前だ。(家長が政治的に不味い場合は族滅の恐れがある)

戴一族の祖先は前漢時代の官僚である戴徳と戴聖。この二人が編纂した『大戴礼記』『小戴礼記』が儒教の基礎テキストとして採用されたことから名門としてのプライドがあったことが予想できる。
戴隆邦及びその一族全体として漢族名門の名前を持っていながら礼記について意識していないはずがなく当然読んでいないはずもない。
時は漢族支配の明末から女真族支配の清初にかけて、政治の混乱と、それに伴い勃発する戦争を潜り抜けて商業的成功を収めていた漢族名門の戴一族が未来のことを思ってどう動いていたか想像したら色々と面白いものが見えてくる。

そう考えると郭一族との付き合いが武術中心でない可能性は極めて高い。
武術中心で物事を捉えていたカンフーオタクだと分からないかもしれないが、娘を嫁にやると言うのが「相手の一族の子孫が絶えないように」するニュアンスが含まれている。
穢れた技術である武術が一族同士のお付き合いの中心になるという発想がそもそもおかしい。
武術を教わったことで大事な跡取り息子が死んだら嫁をもらった意味がないではないか。
一族同士のお付き合いをするために娘を一人嫁にやったら婿殿に「どうしても武術を習いたい」と請われて伝承したのが真相ではないか?
しかもこの時代に恋愛結婚なワケがない。
『柳斉誌異』を読むと良い。

武術・兵法を使える人間は一族内に二人はいたほうが良い。
政治的に不味くなったら一人は犠牲にできるから。
一人残っていれば次の世代に残せるから。

06/07/2024

礼記

古代社会において農業生産力の増大を可能にしたものは何か?それは人間の生活に規則性を持たせる精神活動に他ならない。
狩猟採集生活や騎馬遊牧生活などの移動性社会は季節の変遷に合わせて住環境ごと移動するため文字の発達がさほど必要なく代わりに身体の運動が重視され必要な道具の材料調達や制作能力が非言語コミュニケーションによって伝播した。
対して農業を社会生活の基盤として据えるには文字による記録の積み重ねが絶対的必要不可欠となる。
暦を作り、季節の変化を記録し、収穫物を計測して消費と次年度の生産資源を確保しなければ生産量を維持していくことが難しいからだ。
人は生まれた時から完璧な状態ではないので、自然状態で己の欲望に従って食べれるだけ食べてしまうと翌年の農業はできなくなる恐れがある。
それを防ぐためには序列を作り役割を分担して指示系統を整備し過去の記録を参照に未来の予測を立て備蓄を作り連続性を持たせなければならない。(礼記には備蓄の基本は原則九年分とある)
その政体に参加する民衆総員が生き延びるため、活かすためには『人はどうあるべきか?』を定めて、それを守ってもらわねばならない。
所謂経済は「経世済民」と言うのが本来であって英語の「Economy」とは微妙に意味のズレが有る。
政治の力で民を救うのが経済である。
だから「盲目の民」(民という漢字がそもそも「目の見えない者たち」)には初見では理解できない。
今日より明日、明日よりもっともっと先の先まで未来を見通して全員が助かる方法を考える必要があり、それを施行するのが君主の使命であるというのが礼の根底に流れる思想だ。
例えば、、、
春には罪人の処刑は行わない。
罪の軽いものには恩赦を出して開放する。
これは生産が今から始まるから人手を確保する意味がある。
逆に秋には罪人の処刑を行うし戦争も秋に行う。
人口を少しでも減らして冬の備蓄食料の消費を抑える意味がある。
こんな感じで本来の礼は人の気持という観念的な概念と物資食料という現実的な概念を融合しているのが本義であって、現代の礼のように気持ちの問題だけのような曖昧模糊としたものではない。
黄帝内経が時代が降って形骸化し科学的論証から離れてマジナイの類に堕したように、礼も蒙昧無知な民衆が気持ちよくなるためだけのツールと化してしまっている。
面白いのは礼記上中下巻の中巻終盤まで読んだが内容の大半が「人が死んだ時の話」つまり喪儀に関する事だ。
何故こんなに紙面が割かれているのか考えてみた。
葬式は死んだ人のためではなく生きている人のために行うという話を聞いたことがある。
そこから推測するに人生において精神的な大ピンチが起こりやすいのは家族が死んだ時だからではないか。
ここで仏教に伝わるあるエピソードを持ち出してみよう。
ある村で死んだ子供を何時までも抱きかかえて泣き続ける女がいた。
通りかかったブッダが「コレコレの材料を村人から集めてこれば生き返らせてあげるよ。ただし家族が一度も死んだことのない人から貰わないと駄目だよ」
女は村中の家を訪ねて材料を貰おうとしたが家族が死んだことのない人は一人も居なかった。
「君と同じ悲しみを感じたことのない人なんて一人も居ない。それでもみんなどんなに悲しくても普段の生活を続けている。」
自分だけが悲しいのではないと気づいた女はこうしてブッダの弟子になった。
古代社会においても、どんなに序列を作って役割を与えても家族の死に堪えきれず悲しみに明け暮れて仕事ができなくなる人が跡を絶たなかったのではないか。
だから「三年の喪に服す」は三年の間に心を整え卒哭して社会復帰せよと言うのが本来で、卒哭に至るまでの儀式が細かく決められて社会全体で喪主の心を癒やす目的があったのだと思う。
礼記は命を粗末にすることを嫌う。
”君が家族を失って悲しむように、君を失って悲しむ家族がいる、君が家族を失って仕事に身が入らないように、君を失って仕事に身が入らない家族がいる”
人の心を知らずして礼を語るなかれ。

23/06/2024

ウソみたいだろ。
2000年以上昔の人だぜ。
これ書いたの。
たいして変わってないんだぜ、
ただ、
ちょっと便利な世界になったくらいで......
今もおんなじ事やってんだぜ。
な。
ウソみたいだろ。

―――今の教育では、教師はただ目前の教科書を読上げて、文字や辞句の質問を並べて学生を責め、言説が散漫であり、学習範囲を広げることを急いで、ゆっくりと研究することを教えようとせず、人びとをその本心から学問を好むに至るように導くこともせず、また人を教えるのに、好くその才能を尽くすことに努めず、教師の教え方も誤っており、学生の学び方も正しくない。そのため学生は、学問が好きになれず、教師に親しまず、学習の困難に苦しむばかりで、その利益を知るに及ばず、従って学校を卒業したら、たちまち学問を捨ててしまうのである。今の学校教育が功を成さぬ理由は、上述のとおりではなかろうか。―――
~~礼記より「學記十八」竹内照夫・著~~

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