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連載(12)「兼業作家」は北海道を掘り起こす/成田智志さん(江別市)Updated: 2010/03/18 初の長編小説でいきなり全国的な知名度を得た。江別市在住の成田智志さん(46)は昨年11月に執筆した「監獄ベースボール 知られざる北の...
04/09/2012

連載(12)「兼業作家」は北海道を掘り起こす/成田智志さん(江別市)
Updated: 2010/03/18

 初の長編小説でいきなり全国的な知名度を得た。江別市在住の成田智志さん(46)は昨年11月に執筆した「監獄ベースボール 知られざる北の野球史」が10日、昨年のワールド・ベースボール・クラシック日本2連覇を記念して創設された「第1回サムライジャパン野球文学賞」の特別賞を受賞した。初の小説は400字詰め原稿用紙700枚の大作。それでも「今だから言う訳ではないですが、不思議なもので書けそうな気がしていた」と、手応えはあった。

 「兼業作家」だ。岩見沢高等養護学校の教諭を務めながら、作家活動をする。江別高時代に野球部ながら誰にも言わず「税に関する高校生の作文」に応募し受賞したことがある。「書くことが好きなんですよね」。エッセーなどを地元の同人誌に寄稿するなどしてきた。学校では文芸部の顧...問を務め、高校生を指導してきた。成田さんに転機が訪れたのは06年の夏だった。

 休日、月形町にある「月形樺戸博物館」に足を運んだ。1881年(明14)、内乱で逮捕された国事犯、反乱分子を収監する必要に迫られ、全国で3番目となる集治監「樺戸集治監」が建てられたことを知った。その10年後、3代目典獄(監獄所長)として就任した大井上輝前(おおいのうえ・てるちか)が囚人教化のために「ベースボール」を採用したという事実が記されていた。その一文に衝撃を受けた。

 過酷を極めたはずの北海道の囚人とベースボール―。この組み合わせに心を奪われた。担任を持たなくなったこともあり、休日は取材に没頭した。思いついたら小さなメモに筆を走らせた。自宅に帰るとパソコンの前に座った。「机に向かえる環境ならば(キーボードを)打ち続けた」。気持ちを抑えきれなかった。「不況下の北海道で100年前のことを振り返って何になると言われるかもしれない。それでもこれほどの功績を残した人が、なぜ歴史に埋もれ、評価されないのか」。使命感と義憤に突き動かされた。08年3月に書き始めた作品が完成するまでに1年を要した。

 書くことが「教師という職業に還元できる」という。いろいろな取材を通じて人と出会った。視野が広くなった。「昔はすぐ、結果を求めてしまっていた。今は気長に待つことができるようになりましたね」と話す。生みの苦しみが教育者としても成田さんを強くしたのかもしれない。次作は坂本竜馬のおいで北海道に移住した直寛をテーマにする予定だ。「北海道に育った僕は、北の大地の香りがするものを書き続けていきたい」。今、あらためて強く思う。【上野耕太郎】

 ◆成田智志(なりた・さとし)1963年(昭38)12月18日、千歳市生まれ。6歳から江別市に移り、江別高卒業後、北海学園大法学部に進学。卒業後、札幌学院大英米文学科に入学し教員を目指す。88年に美瑛高の臨時職員に。苫小牧東高、置戸高を経て93年に現在赴任している岩見沢高等養護学校に。02年には北海道教大札幌、岩見沢校の大学院を卒業。家族は妻。趣味は映画観賞。

 ◆監獄ベースボール 09年11月、亜璃西社(札幌市中央区)から発行。1680円(税込み)。明治中期の北海道で囚人の教化のために野球を採用した典獄(監獄所長)がいた。北海道開拓のために作られた監獄「集治監」の典獄、大井上輝前は米留学で出会ったベースボールとキリスト教を囚人たちに伝えた。石炭採掘など過酷な労役などに苦しむ囚人たちに希望の光を与えた大井上の半生を描いた歴史小説。綿密な取材を重ね、400字詰め原稿用紙700枚分の大作に仕上がった。

 ◆成田さんの北海道特選
 ▽風景 長沼町の北長沼に、なだらかな丘がある。そこの夕日は絶景。心の洗濯になります。長沼には「KOO’S CAFE」という喫茶店があって、そこは本当に落ち着きます。その喫茶店が丘の途中にあるのですが、そこを上がりきると、道央圏では最高じゃないかと思う風景に出会えます。

.連載(11)1日1組「奇跡の宿」/「のんびり宿 スロウ inn 楓(ふぅ~)」(新得町)Updated: 2010/03/11 そのドアを開けると、目の前に広がった不思議な空間に心を奪われた。新得町にある「のんびり宿 スロウinn 楓(ふ...
04/09/2012

.連載(11)1日1組「奇跡の宿」/「のんびり宿 スロウ inn 楓(ふぅ~)」(新得町)
Updated: 2010/03/11

 そのドアを開けると、目の前に広がった不思議な空間に心を奪われた。新得町にある「のんびり宿 スロウinn 楓(ふぅ~)」は1日1組限定の宿泊施設だ。08年9月にオープンした同所はホテルとも、ペンションとも民宿とも違う。広い土間、地元神社の大木を大黒柱に使った10㍍の吹き抜けの空間、階段ではなくじゅうたんが敷かれたスロープ、最上階には木で作った滑り...台、十勝の野菜をふんだんに使ったダッチオーブン料理―、ぜいたくで心温まる空間だ。

 オーナーは遠藤正紀さん(39)、郁子さん(45)夫妻、そして慧(けい)君(2)だ。夫妻は07年3月まで小学校教諭を新得で務めていた。子供のころからの夢であり、安定した職業でもある教職からの転身。正紀さんはこう語る。「1番の理由は人生は1度きりなので、違うこともやってみたかった。ほとんど全員に反対されましたけど」。赴任先の新得に魅せられた。タイミングも合った。夫妻それぞれが担任を受け持った最後のクラスが素晴らしかった。「こうやれば良かったと思うことも多少はありますが、思い残すことなく満足という気持ちになれました」と振り返った。

 07年3月にそろって退職した。「2人だけならなんとかなるだろう」と準備に取りかかったが、郁子さんが妊娠。08年2月に慧君が誕生し、7カ月後に開業した。どちらかが教職に就きながら、一方が宿の準備をするというやり方もあったが選ばなかった。「2人で一緒にやりたかったんです。子供ができて、仕事も育児も2人そろってやれることがうれしい」と郁子さんは話す。

 宿には夫婦の夢が詰まっている。建物はすべて道産のカラマツで作り上げた。土間を広く、流しそーめんを室内でもできる大きさだ。神奈川県出身の郁子さんは子供のころからマンション住まい。それだけに「家の中に滑り台がほしかった」という。建物の3階には木で作られた滑り台が階段のように設置されている。薪ストーブの前にはハンモックがあり、本を読みながら眠ってしまう人もいるという。外は防風林のある平原、静かで暖かい1日は、大人も子供も楽しい。

 「今は働いている方々、子育て中のお母さん、みんな大変ですから。そんな人たちに少しでも安らぎの時間をご提供できれば」と郁子さん。奇跡のような宿の最大の特徴はゆっくりと流れる時間と、心からのもてなしにある。【上野耕太郎】

 ◆のんびり宿 スロウinn 楓(ふぅ~) 住所は新得町上佐幌西1線38の8。JR新得町から車で5分の「かえで団地」のなかにある。部屋はロフト付の「さくら」(セミダブルベッド2、ロフトはセミダブルベッド1、洗面所、トイレ付)、「ひまわり」(ダブルベッド1)、「かえで」(セミダブルベッド2、洗面所、トイレ付)の3種類。1日1組限定だが、1人から8人の宿泊が可能。共有スペースには薪ストーブ、いろり、浴室、マッサージチェア、ハンモックなどもある。夫妻に加え、「看板息子」の慧君の愛らしさに心が和む。宿泊客の好みに合わせたもてなしをするため事前連絡が必要。問い合わせは 電話 050・3150・2521。ブログはhttp://blog.goo.ne.jp/fu2007

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連載(10)高橋名人は永久に不滅です/ハドソン高橋利幸さんUpdated: 2010/03/04 日本のサラリーマンで「名人」の肩書を持つのはこの人だけだろう。「高橋名人」こと高橋利幸さん(50)は06年11月、ゲーム会社ハドソンでの肩書が...
13/05/2012

連載(10)高橋名人は永久に不滅です/ハドソン高橋利幸さん
Updated: 2010/03/04

 日本のサラリーマンで「名人」の肩書を持つのはこの人だけだろう。「高橋名人」こと高橋利幸さん(50)は06年11月、ゲーム会社ハドソンでの肩書が宣伝部長から「名人」に変わった。「おかげさまで名前を売ってもらったおかげで宣伝はしやすいですよ」。1月にはCD「高橋名人伝説 ―魂の16連射―」もリリース。睡眠4時間と多忙な毎日を過ごす。

 今、40歳前後の世代ならば、著者を含め1つの疑問があるのではないか。高橋名人の名前をどうやって知ったのか―。気が付くと「連射」を武器にゲーム界のみならず、子どもたちに一大ブームを巻き起こしていた。そのきっかけは何だったのだろうか。

 札幌出身の名人は高校卒業後に北海道自動車短大に進学。北24条にあった札幌フードセンターのバイトに熱中し、短大は3カ月で中退した。凝り性の性格から81年、在庫管理のデータ化を決意する。当時28万8000円のパソコンと、29万8000円のフロッピードライブをローンで購入。「ホント嫌になるほど難しかったけど、月末になると、振込用紙が来るんですよ。頑張らないといけないなと奮い立ちました」。
 パソコンの世界に興味を持ち82年、当時、札幌・平岸にあったハドソンに転職した。ゲームのバグ、欠陥を発見および修正から宣伝までこなした。85年、東京・銀座の百貨店で1時間、イベントをすることになった。唯一の宣伝担当だった名人に「何かやれ」と白羽の矢が立った。テレビを置き、発売前のゲームのデモンストレーションをやることになった。

 当日800人の子供を前にしたデモの最中、困ったことが起こった。発売前のため、クリアするとパスワードの入力が必要な画面が出てきてしまうのだ。「(入力法が)見られるとまずいので、背中でコントローラーを隠し、入力したんです」。その姿を子どもたちは「見ないで操作している」とざわめき、曲芸と勘違いした。イベントが終わると100人がサインを求め並んでいた。1カ月後には本名の高橋利幸から「高橋名人」に、さらにその2カ月後には全国60個所のキャラバンに出発していた。

 86年には映画にも主演、自伝が漫画にもなった。社会現象にまでなった時代から四半世紀を過ぎた現在でも現役だ。仕事柄、漫画雑誌を含めた雑誌だけでも1カ月に50冊以上は目を通す。好きな映画のDVDを見ながら、本を読むこともできる。まさにゲームで鍛えた「マルチタスク」ぶりだ。代名詞となったゲームでの早撃ち16連射こそできないが、今でも13連射は可能だ。高橋さんは言う。「楽しまないと匠(たくみ)にはなれないと思う。名人に引退はないですよ」。人にそしてゲームに歴史ありだ。【上野耕太郎】

 ◆高橋名人(たかはし・めいじん)本名・高橋利幸。札幌市生まれ。82年にハドソンに入社。ゲーム機のコントローラのボタンを1秒間に16回押すという「16連射」を駆使して、ゲームソフト「チャンピオンシップロードランナー」を日本で初めて全面クリアした。86年には毛利名人との対決を描いた映画「GAME KING 高橋名人 VS 毛利名人 激突!大決戦」に主演。ゲームソフト「高橋名人の冒険島」の主人公キャラに、伝記「高橋名人物語」が月刊コロコロコミックに掲載された。趣味はオートバイと映画鑑賞でレーザーディスクは800枚、DVDは500枚以上保有する。独身。

http://www.northstyle.jp/home/video.asp?uid=1&id=70

連載(9)「船長」は海のオールラウンダー/菊地透さん(小樽市)Updated: 2010/02/25 海をこよなく愛する男は、小樽の石原裕次郎記念館の前にオフィスを構えていた。菊地透さん(51)は300艇が停泊する小樽港マリーナを眼前にしな...
13/05/2012

連載(9)「船長」は海のオールラウンダー/菊地透さん(小樽市)
Updated: 2010/02/25

 海をこよなく愛する男は、小樽の石原裕次郎記念館の前にオフィスを構えていた。菊地透さん(51)は300艇が停泊する小樽港マリーナを眼前にしながら「海の普及委員会の広報委員みたいな感じです」と自己紹介した。肩書、戦績は数知れずほど持つが、肩ひじは張らない。ただ「海が好き」なのだ。

 中学を卒業後、小樽海員学校に入り2年間、実地で鍛えられた。卒業の日、1枚の合格通知が届いた。日本郵船からだった。貨物船に乗り、願いをかなえた。4年間、インド洋や地中海で航海したが、徐々に違和感を覚えた。「速度が速すぎて、自然との対話ができない」。陸上勤務中に横浜でヨットに出会った。理想の乗り物だった。五輪出場を目指すほど熱中した。

 会社を辞め、ヨット会社に就職した。午前8時から午後8時まで仕事し、30㌔の道を自転車で自宅に戻り同10時に就寝。遠征費を稼ぐため午前2時から同7時まで定置網の漁船に載り、30分の仮眠という生活を続けた。「アスリートは基礎体力が落ちると思考能力も落ちる。ヨットは1~2時間の勝負。体力があったことは幸いだった」と振り返る。
 84年ロサンゼルス五輪の選考会は通過した。ただ当時は企業スポーツ全盛時で、自費で戦う菊地さんには限界があった。スポンサー回りなどもしたが、3000万円の遠征費が用意できなかった。「正直、悔しかった」。五輪はあきらめたが、ヨットマンとしての挑戦は終わらなかった。

 92年の日本チャレンジは裏方として、95年のアメリカズカップはコーチ兼クルーとして出場した。クルー7人で挑戦した98年太平洋横断では14日17時間22分という最速記録を樹立。横浜―サンフランシスコ間のこの記録は現在も破られていない。07年にはスコットランドで行われた世界選手権のクラシックボートの部で優勝。現在も競技者は続けるが、後進を育てようという思いが強くなっている。
 子どもたちに「海で遊んでもらいたい」と小樽の沿岸に650坪、75㍍の海岸線のある土地を購入した。海岸で遊ぶことや、自然の楽しさを伝えたいという思いの表れだ。「夢を与えるのが僕の仕事だと思っています。『有機質』な子どもたちを育てたい」。海に魅せられた少年は、何年経ってもその気持ちを失うことはない。【上野耕太郎】

 ◆菊地透(きくち・とおる)1958年(昭33)915日、美唄市生まれ。74年に小樽海員学校(現小樽海上技術学校)を卒業し、日本郵船に入社。78年にパフォーマンスセイルクラフトジャパンに入社し、五輪出場を目指す。80年レーザー全日本選手権3位。91年に小樽に戻りカラットマリンシステムを主宰する。01年に「クラブメッド号」のクルーとして世界一周新記録艇を樹立。親交のある歌手の矢沢永吉氏からは「船長」と呼ばれている。独身。

 菊地さんの北海道特選
 ▽場所 小樽は好きですよ。知床の文吉湾も素晴らしい。でもね、私は海から自分の住んでいるところを見るのが好きです。少し沖に出ると、小樽の港から札幌のJRタワーとか見えるんです。
 ▽食べ物 サケのトバが最高。海外の船員たちも私のトバを「ドライサーモン」と言って食べていました。トバのうまさは世界共通のようです。

http://www.northstyle.jp/home/video.asp?uid=1&id=65

連載(8)木のぬくもりを伝える/「ログハウス21」松延浩志さん(北広島市)Updated: 2010/02/17 北海道に特別なイメージもあこがれもなかった。ただの「配属先」が人生を変えた。92年に千葉大を卒業後、INAXに入社した松延浩志...
13/05/2012

連載(8)木のぬくもりを伝える/「ログハウス21」松延浩志さん(北広島市)
Updated: 2010/02/17

 北海道に特別なイメージもあこがれもなかった。ただの「配属先」が人生を変えた。92年に千葉大を卒業後、INAXに入社した松延浩志さん(42)はその4月、札幌に赴任した。愛知県豊橋市出身。縁もゆかりもなかった。「飛行機に初めて乗れるなぁと北海道に来たのですが、不思議ですね…」と振り返る。

 少しずつ魅せられていった。その年の夏休みに同僚と3人で1週間、知床など道東を回った。子供のころ、川で遊ぶのが好きだった。大学までラガーマンだった青年はアウトドアにのめり込んだ。「僕はマンガ『釣りキチ三平』世代だったんで渓流釣りにはまりました」。当時付き合っていた現在の妻、仁さんと2人で北海道を回った。
 入社6年目、転勤という現実が迫ってきた。「僕はダメなサラリーマン、会社から去って良かった人間だと思う。昇進試験の準備でもらった休日も釣りに出かけた。仕事に対しても受け身だった。北海道での生活はもう、替え難いものになっていましたので。東京に行ってライフスタイルが崩れるのが嫌だった」。

 会社を辞める決意をした。99年3月に退社し、現在のログハウス21のビルダー見習いとして入社した。経済的には厳しくなったが妻の後押しが心強かった。ビルダーを5年経験したのち、スペシャリストになりたいと思った。営業、設計にも取り組んだ。「前の私は勤め人だった。仕事をこなしていくだけだった。充実感が違った」。体の疲れが心地よかった。

 08年、同社の社長に就任した。北海道の木を中心にしていきたいが、まだ丸太の強度が足りないものもある。アメリカの松、北海道のカラマツや杉などを組み合わせ「適材適所」の配置をする。現在、年間で一般住宅を4棟建てるのが限界だが、建てた2年後には必ず無償で修理に入る。「家を建てていただいた方と一生のお付き合いができれば」。よりお客の側にいようと思っている。

 壁にはしっくいを使うケースもあるが、それもすべて天然素材だ。冬でも薪ストーブの家は暖かく、木の香りは気持ちを落ち着かせる。「5感を刺激する住宅なんです」。このぬくもりは作り手の思いが込められているからかもしれない。【上野耕太郎】

 ◆松延浩志(まつのぶ・ひろし)1967年(昭42)6月6日、愛知県豊橋市出身。千葉大法経学部卒業後の92年4月、INAX北海道支社に配属。99年4月、業界では草分け的な存在だったログハウス21に転職し、ログビルダー見習いから始める。08年から代表取締役。家族は妻仁さん。

 松延さんの北海道特選
 ▽場所 東大雪のニペソツ山です。夏の7~8月がきれいです。2時間くらい歩くと、いきなり山が見えてきて感動しました。
 ▽食べ物 秋の積丹マグロがおいしかった。大間産、戸井産は有名ですけど、積丹のマグロにはびっくりしました(仁さん)。
 ▽旅行 新得町にある1日1組限定の「のんびり宿 スロウ inn 楓(ふぅ~)」が素晴らしい。ダッチオーブンの料理は最高です。

http://www.northstyle.jp/home/video.asp?uid=1&id=63

連載(7)北海道ブームの「仕掛け人」/中国映画「狙った恋の落とし方。」宇崎逸聡プロデューサーUpdated: 2010/02/11 中国では今、空前の北海道ブームが巻き起こっている。その「仕掛け人」が上海出身で日本国籍を取得した宇崎逸聡さん...
12/05/2012

連載(7)北海道ブームの「仕掛け人」/中国映画「狙った恋の落とし方。」宇崎逸聡プロデューサー
Updated: 2010/02/11

 中国では今、空前の北海道ブームが巻き起こっている。その「仕掛け人」が上海出身で日本国籍を取得した宇崎逸聡さん(50)だ。20日から公開される映画「狙った恋の落とし方。」の日本側エグゼクティブプロデューサーで、今回は初めて俳優にも挑戦した。08年公開の同作品は、中国史上最大のヒットを記録した大人のラブコメディー。作品の後半は、宇崎さんが「本当に素晴らしい景色と感じました」と評する釧路、阿寒湖、網走などが舞台となる。その美しく切り取られた映像の影響から、観光客が激増している。

 06年、友人らと道東を車で回った。感動した。友人でもあり中国でヒットメーカーの馮小剛監督が07年に来日。「北海道に行きたい」と言う同監督に「知床なら知っているよ」と案内した。その風景を見た同監督は、北海道を舞台にした映画製作を決意。製作のプロデューサーとして宇崎さんも参加した。「映画はヒットすると思っていました。その後、こんなに北海道ブームになるのは予想していませんでしたけど」と笑う。

 これまでは平たんな道のりではなかった。「チャレンジすればチャンスはある。神様は平等です。そのチャンスをつかめるように努力することだと私は思います」。映画が好きだった。夕張を舞台にした映画「幸せの黄色いハンカチ」は10回以上、鑑賞した。上海では調剤の仕事をし、生活は安定していたが、夢は捨てられなかった。88年に来日し、皿洗いなど働き続けた。90年に東京現像所に入社した。仕事は体力的にも厳しかったが辞めなかった。「実績も基本もないうちに何を言ってもダメ。認められるまで仕事をすること」とひたすら働いた。

 日本人女性と結婚し、子だからにも恵まれた。今回の映画の成功に、麻生太郎前首相から「日本に与えてくれた経済効果は計り知れない」と直接、感謝の言葉ももらった。それでも宇崎さんは挑戦を続ける。「映像、ドラマ、特に映画は1つの国を左右するほど影響力がある。仲良くしたほうが温かい気持ちになれるじゃないですか。もっとお互いの国が良い方向になるようにまた、映画をつくりたい」。中国と日本の架け橋になるために、常に前向きだ。【上野耕太郎】

 ◆宇崎逸聡(うざき・いっそう)本名・〓逸聡。1959年6月6日、上海出身。88年に日本に留学、90年より東京現像所に勤務し映画界に入った。現在、サン・バイ・サンワークス代表取締役。中国や台湾の映画配給権利の買い付けや宣伝にもかかわる。日本国籍も取得。家族は日本人の妻と長女と長男。08年には観光庁より「第4YOKOSO!JAPAN」大使に任命された。千葉県在住。
※〓は鳥にこざとへん

 ◆映画「狙った恋の落とし方。」 中国を代表する監督、馮小剛の08年公開作品。中国原題は「非誠勿擾」。中国では「レッドクリフ」を抜き、興行収益史上最高を記録し、DVDを含めると約1億人が観たともいわれる。結婚相手を募集するサイトで知り合った中年男性秦奮(葛優)と、客室乗務員の梁笑笑(舒淇)のラブコメディー。映画の中盤から舞台は北海道になり、釧路、阿寒湖、網走、厚岸、斜里、美幌といった土地の美しい映像が話題を呼び、北海道観光が中国でブームになった。日本ではニトリパブリックが配給権を取得。20日から全国に先駆け北海道で公開される。

 ◆宇崎さんの北海道特選
 ▽場所 この間、トマムに行ったんですけど良かったですね。あと十勝。あそこは食べ物もおいしいし、いいですよね。 
 ▽食べ物 網走で食べたキンキ。焼きもいいですけど、しゃぶしゃぶがおいしかった。

 ◆取材後記 
 「中国で反日感情の高まり」といった報道を目にすることがある。サッカーの国際試合では日本代表がブーイングを受けるシーンも印象深い。
 
 ただ、それは一部でしかない。
 
 それほどの嫌悪感が全体に蔓延しているのであれば、これほどの中国人観光客が北海道に来るとは思えないのだ。宇崎さんは言う。「日中国交正常化から日本の映画が中国に入ってきました。私達の世代は『幸せの黄色いハンカチ』など日本の映画を見ました。そして憧れました」。その日本映画文化を目の当たりにした「第一世代」の馮小剛監督や宇崎さんが「狙った恋の落とし方。」を作り、新たな世代を日本に、そして北海道に導いてくれた。

 先日、映画を鑑賞した。派手なアクションも強引な笑いへの誘導もない。クスッと笑わせるロードムービーは、上品な仕上がりだ。宇崎さんはこうも言う。

 「映画には『婚活』する人、株にはまっている人、同性愛者、お墓のセールスなど色々な話が出てきます。そして、この話題は今の中国の社会現象でもあるのです」。

 20数年前、日本語がまったくできない28歳は異国に飛び込んだ。その行動力に感服する。口には出さないが1つ1つの言葉が心にしみた。人柄もあるのだろうが、苦労人の優しさと含蓄に溢れていた。

 「2つの国がどうなるほうがいいですか。今度の日本での公開で中国の姿を知って欲しい。そして今の中国のブームが冷めないうちにもう1本、映画を作りたいのです」。
 
 宇崎さんは「より良い両国の関係」を願った。1人の願いは小さい。ただし、その願いは強く、ぶれなかった。その輪が広がり、中国全土を巻き込んだ。

 宇崎さんは映画の後半、知床旅情を歌いながらすすり泣くシーンを演じた。「家族や友人と離れ日本に住む中国人は別れや寂しさを抱えている」。この映画は文化であり、思想であり、日本に住む中国人の魂の結晶なのだ。今度は日本人がその思いをしっかりと受け止める番だ。【ノーススタイル事務局・上野耕太郎】

連載(6)日本ハムと北海道を愛する「キングオブJソウル」/久保田利伸さんUpdated: 2010/02/04 最低気温マイナス9・5度。この冬一番の寒さとなった3日、日本一ソウルな男、ミュージシャン久保田利伸(47)が札幌を訪れた。今回は...
12/05/2012

連載(6)日本ハムと北海道を愛する「キングオブJソウル」/久保田利伸さん
Updated: 2010/02/04

 最低気温マイナス9・5度。この冬一番の寒さとなった3日、日本一ソウルな男、ミュージシャン久保田利伸(47)が札幌を訪れた。今回は「お土産」を持参した。1月27日にリリースされた2年ぶりのシングル「Tomorrow waltz」。2月24日には4年ぶりのアルバム「Timeless Fly」も控える。

 「いつもは3、4カ月で制作するアルバムに、今回は1年かかった。作り込んだ曲は40ぐらいに膨らみ、絞り込んだり、また考え直したり」。JUJU、WISEといった若手ゲストと作り上げる行程にも時間を割いた。「4年分の思いを、自分なりに出し尽くしたかったし、その上で『素』の作品にしたかった」。敬愛する故マイケル・ジャクソンさんへの思いを込めた「STAR LIGHT」も収められている。
 86年のデビュー当時は日本、そして業界に違和感があった。周囲に自分の好きなものを愛する人が少なかった。93年にニューヨークに住んだ理由もそこにある。だが、久保田自身が蒔いた種が、日本では育っていた。「最近、こいつとやってみたいと思うミュージシャンが日本に急激に増えた。当時はありえないと思った。今、逆に日本を新鮮に感じる」と変化を感じ取っている。

 北海道に、その変化を愛する土地柄を感じるという。「新しいって言葉がぴたりくる。偏見もない。音楽の好きな人も多いしね」。デビュー当時、北海道の音楽ファンの「感度」に驚いた。今もその気持ちに変わりはない。「歌のうまい人、声が素晴らしい人も多いですね。(福原)美穂ちゃん、玉置(浩二)さん、松山千春さん。大地の声、なのかも」。相性の良さなのか「苦手だったイクラを初めておいしいと感じたのも北海道」と笑う。

 実はもう1つ、接点がある。日本ハムだ。中学の野球部の2歳先輩に評論家の広瀬哲朗氏(49=元日本ハム)がいた。「(日本ハムの)CMを一緒にやらないかって声をかけられて。2年先輩ですから、命令は絶対でした」と振り返る。以来、1番好きなチームになった。「移転の話を聞いて初めは『いきなり、すごいことするな』と。でも、こんなに人気になるなんて」。縁は続く。「昨年、優勝したときは、うれしくて大社オーナーにメールしたんですよ」。【上野耕太郎】

 ◆久保田利伸(くぼた・としのぶ)1962年(昭和37)7月24日、静岡県生まれ。駒大卒。作曲家を経て86年に「失意のダウンタウン」でデビュー。ヒット曲に「Missing」など。95年にアルバム「SUNSHINE MOONLIGHT」で全米デビュー。96年には「LA・LA・LA LOVE SONG」が日本で200万枚を超える大ヒットとなった。04年10月には、外資系企業に勤める11歳年下の日本人女性と結婚した。

 ◆久保田さんオススメの特選北海道
▽食べ物 札幌ラーメンです。お店の名前は勘弁してください。北海道といえば味噌ラーメンというイメージがありますが、僕は醤油です。麺の太さ、強さが最高。量も多いですよね。

連載(5)第2の故郷「十勝を編む」/広瀬 光治さんUpdated: 2010/01/28  「ニットの貴公子」は中札内村で夜なべしていた。NHK「おしゃれ工房」の講師を務めた広瀬光治さん(55)は03年、同地に別荘を持った。05年から昨年末...
12/05/2012

連載(5)第2の故郷「十勝を編む」/広瀬 光治さん
Updated: 2010/01/28

  「ニットの貴公子」は中札内村で夜なべしていた。NHK「おしゃれ工房」の講師を務めた広瀬光治さん(55)は03年、同地に別荘を持った。05年から昨年末までは、その横に併設された「広瀬ニット館」で作品を展示してきた。「本当に好きな土地ですね。第2の故郷です」とその思いを口にした。

 別荘には年に5度程度、訪れる。知人から誘いを受けたのがきっかけだ。「私はそれほど都会ではないですが埼玉の出身。やはり雑音はあります」と話す。別荘を購入する前、中札内に宿泊した時のこと。夜の光のない世界、音のない世界―。その静寂とピーンと張った空気に心を奪われた。セカンドハウスを持つことを決めた。

 「十勝を編む」。創作意欲をかき立てられた。編み物の組み合わせは無限大。「夕日が何色にも変わっていく。この風景をニットに」「このキャベツ畑はすばらしい」「庭にリスがいた。このかわいい姿をセーターの中に」。次々と題材が目の前を通り過ぎていく。「北海道は私にヒントをくれる。もっと、もっとやることがあると教えてくれる」とおだやかな口調にも熱がこもった。
 編み物が本当に好きだ。テレビに登場した後、ブラウスとニットの組み合わせという女性っぽい服装、その容姿も注目を集めた。広瀬さんにとっては好都合だった。「男の人が編み物を着て、女性の服を着て。『あの人って何者』と(コラムニストの)ナンシー関さんらが書いてくれた。私にとっては『しめしめ』って感じでした。編み物を広められますから」といたずらっぽく笑った。

 「ものづくり」は心を豊かにしてくれると信じている。01年9月11日の米中枢同時テロ以降、公園で編み物をする人が増えたといわれている。「女優のジュリア・ロバーツが『私は編み物が好き』と公表したり、かつてはセレブっぽい趣味でした。それがテロ以降、『気持ちのはけ口』として編み物をする人が増えました。単純作業ですが心を落ち着かせる作用があるかもしれませんね」。

 かつて「ハンドメード」は身近だった。サイズや流行が合わなくなったら毛糸をほどいて作り直した。手づくりが少なくなった今、子どもたちへ技術を伝えていく。「子どもたちが『あの男の人が作ったマフラーは、首が温かかったなぁ』と思ってくれるだけでいいんです」。技術だけではない。ぬくもりも次世代に伝承していく。【上野耕太郎】

 ◆広瀬光治(ひろせ・みつはる)1955年(昭30)1月28日、さいたま市出身。高校卒業後に宝幸水産に入社し経理を担当。築地で仕事をしながら霞ケ丘技芸学院の夜間部に通学。78年に出版社の日本ヴォーグ社へ転職した。93年にNHK「おしゃれ工房」でテレビ出演し、全国区に。そのルックスから「ニットの貴公子」と呼ばれている。99年に退社しフリー。独身。

◆広瀬さんの北海道特選
 ▽場所 然別湖が好きです。冬の「氷上露天風呂」は最高。顔が凍りそうで、体は温かいという感覚は何とも例えがたいですね。
 ▽食べ物 ジャガイモ、牛乳、ビール、ツボダイ。特にツボダイは東京ではほとんど食べることができない。あと私はこう見えて若い時は日本酒1升、飲めました。根室の日本酒「北の勝」が好きですね。
 ▽遊び 乗馬です。本州ではぐるぐる回るだけですけど、北海道は自然とともに馬に乗れる。最高です。

http://www.northstyle.jp/home/video.asp?uid=1&id=52

連載(4)戦闘機パイロットから「空の作家」へ/野営飛行舎・湯口公さんUpdated: 2010/01/21 たった一つの風景で、人生が変わった。 倶知安町に住む湯口公さん(38)は、肩書を尋ねられると、しばらく考え込んだ。「とりあえずは飛行...
12/05/2012

連載(4)戦闘機パイロットから「空の作家」へ/野営飛行舎・湯口公さん
Updated: 2010/01/21

 たった一つの風景で、人生が変わった。

 倶知安町に住む湯口公さん(38)は、肩書を尋ねられると、しばらく考え込んだ。「とりあえずは飛行家ですか…」と苦笑いした。自然を題材に写真、映像を撮影し、文章をつづる。米・アラスカでは、1000万円で購入した自家用軽飛行機「ハスキー」で荒野を進む。「『高い山志向』も『記録志向』もありません。楽しいことをやっているだけ」と肩ひじをはらない。

 旭川西高時代からパイロットにあこがれた。弘前大在学中に米国で操縦免許を取得。「せっかくなら操縦の難しい飛行機に」と卒業後、航空自衛隊に入隊した。4年の訓練後、最高時速マッハ2・4を誇るF―15戦闘機のパイロットとなった。「相手の機体が見えたらすぐにすれ違うという感覚。機体の後ろに付かれたらやられるので、演習でもほとんど後方を見ながら操縦しました」という高度な技術の世界。04年には編隊長資格を取得し、順調に出世もした。

 05年に転機が訪れた。国際軍事行動演習がアラスカで開催された。飛行中、目の前に広がる自然に圧倒された。帰国しても感動は消えない。その年の12月、自衛隊を退官。自然の世界で生きることを決意した。

 07年5月には時速180㌔の「ハスキー」で、アンカレジから北極海への単独飛行を敢行。イヌイットの集落に行き、その生活を体感した。翌年2月には厳冬期の知床岬へ入山した。シーカヤックで海岸線を2泊3日で周り、ヒグマの存在を感じながらテントで寝泊まりした。「チーム・デブリ」と名付けた冬山パウダー滑走チームも結成。自然を深く知るために狩猟も始めた。08年には体験を本に、昨年は空の世界をDVDで映像化した。「社会的には外れているかもしれませんが、その生活の中から自分を見つけたい」。

 自家用ジェットのパイロットとしてスカウトもされた。経済的には安定するオファーも断った。自由と北海道の自然を愛する。「10年近く本州に住んで、北海道に戻ってきた時ですね。こんなに良いところだったんだって思いました。土地の広さ、空の広さ…。雪質も素晴らしい。狩猟もできる。アウトドアをやる人にとっては最高の環境」と話す。そして、最後にこう付け加えた。

 「もっといろいろな意味で冒険しやすい世の中になればいいなと」。湯口さんにとっては、生きることが未知なるものへの挑戦なのだ。【上野耕太郎】

 ◆湯口公(ゆぐち・いさお)1971年(昭和46年)10月10日、東京都生まれ。5歳のときに旭川市へ。旭川春光台中時代、走り幅跳びで全道中学3位。旭川西高時代は陸上部。チーム・ナックスのリーダー、森崎博之氏と同級生で、今年1月の同窓会では、森崎氏も08年に出版した「アラスカ極北飛行」(須田製版)を購入した。91年弘前大理学部地球科学科に入学。96年に航空自衛隊に入隊。09年6月には「DVDアラスカ極北飛行」も発売。家族は妻。


<湯口さんのお知らせ>
●湯口さんのページ
http://www.northstyle.jp/home/?uid=55

●「アラスカ極北飛行」 購入はこちら
http://talkeetna.sakura.ne.jp/talkeetna.jp/autores/alaska_book.html

●「DVDアラスカ極北飛行」 購入はこちら
http://talkeetna.jp/autores/alaska_dvd.html

連載(3)みんな生涯現役!お好み焼きの「伝道師」/風月社長・二神敏郎さんUpdated: 2010/01/14 北海道にお好み焼きを「伝えた」男は謙虚だった。お好み焼き店「風月」の社長を務める二神敏郎さん(66)は、この道に入って2月で44...
12/05/2012

連載(3)みんな生涯現役!お好み焼きの「伝道師」/風月社長・二神敏郎さん
Updated: 2010/01/14

 北海道にお好み焼きを「伝えた」男は謙虚だった。お好み焼き店「風月」の社長を務める二神敏郎さん(66)は、この道に入って2月で44年目を迎える。長続きの理由を聞かれ、恥ずかしそうに答えた。「不器用やったからです」。

 北海道では「お好み焼き=風月」という印象が強く、全国チェーンと勘違いしている人もいるのではないだろうか。札幌に1号店が誕生したのは67年2月11日のことだ。「金持ちになりたかった。クラークさんの『少年よ、大志を抱け』という土地で人生を変えたかった」。大阪出身の23歳は、札幌市中央区の札幌静修高前にお好み焼き店を構えた。広さは3坪。5~6人が座ればいっぱいだった。

 生活は苦しかった。父方は卸問屋、母方の実家は薬問屋を営んでいた。裕福な生活も第2次世界大戦の空襲によってすべてを失った。中学を卒業をしてから働いた。自衛官だった19歳の時、北海道に来た。当時はお好み焼き店どころか、ファストフードもコンビニエンスストアもなかった。「北海道にはお好み焼きがなかった。これなら何とかなるかもしれない」。立ち仕事して寝るだけ。名刺も手帳も持たない。定休日も閉店時間もなかった。仕入れをする金が集まるまで働いた。

 76年、ようやく軌道に乗ってきた。お客は札幌静修、札幌南高などの学生が中心だった。お礼がしたかった。徳島県の「学(がく)駅」の入場券を大量に購入。おまけにした「合格焼き」を合格に縁があるように505円で売り出した。口コミで広がった。「喜んでいただきたいという気持ちだけでした」と口にした。

 自分のことを「経営者」ではなく「商人」と言い切る。「自然が多く、目に優しい」と北海道を愛する男は道民気質をこう話す。「大阪では『儲かってまっか』と聞きます。北海道の人はそんな時、正直に『あきまへん』と言ってしまう。聞いた方と慰め合ってしまう。それではいけないかなと。妬まれず、倒産するとも言われないために『ぼちぼち』と言っておけばいい。もう少し、貪欲(どんよく)さがあっていいのでは」。

 この2年、不況の影響も直撃した。それでも多くの人に働いてもらうため「定年制」はない。75歳の従業員もいる。二神さんも66歳の今でもカウンターに立つ。このポリシーは譲れない。「商いのヒントは現場にあります」。15歳から働いて50年が過ぎた。白衣を着て、笑顔で鉄板に向かう日々は続く。【上野耕太郎】

 ◆二神敏郎(ふたがみ・としろう)1943年(昭和18)10月10日、大阪市生まれ。大阪から愛媛県松山市に疎開。小6の時に再び大阪へ。中学を卒業後、化粧品会社に勤めながら大阪東商高夜間部に通った。卒業後、自衛隊に入隊し、67年1月に除隊。お好み焼き店の風月を開店させ、現在は札幌18店舗、旭川、苫小牧、千歳に各1店舗を展開する。天然温泉の「笑福の湯」「岩盤浴 癒(ゆ)」も経営。

連載(2)ものづくりへの「愛は勝つ」/元音楽ディレクター、多田勉さんUpdated: 2010/01/07 第2回はKAN(47)の大ヒット曲「愛は勝つ」のディレクターを務め、現在はニセコ町でイチゴ畑を経営する多田勉さん(46)が登場。「も...
12/05/2012

連載(2)ものづくりへの「愛は勝つ」/元音楽ディレクター、多田勉さん
Updated: 2010/01/07

 第2回はKAN(47)の大ヒット曲「愛は勝つ」のディレクターを務め、現在はニセコ町でイチゴ畑を経営する多田勉さん(46)が登場。「ものづくり」へのこだわりを語ってもらった。

 こだわり続けたからこそ、音楽を捨て、畑で汗を流す人生を選択した。多田さんはニセコ町で季節ごとの「旬」を大切にし、2ヘクタールの畑でイチゴ、ニンジンやジャガイモを栽培している。「高く売るために、わざと(収穫期を)ずらしたりする人もいるが、自分は一番いいときに出荷する」。こだわりは今も昔も変わらない。

 20年前の1990年、26歳のとき転機があった。中学からバンドを始め、拓大卒業後に音楽出版社「日音」に入社。宣伝やディレクターなどを務めていた。同社に所属していた年の近いアーティストがKANだった。

 それまでKANは4枚のアルバムを出していた。業界での評価は高かったが、売れなかった。飲み仲間だったKANの5枚目のアルバムに、多田さんはディレクターとして参加した。

 同アルバムからシングルカットされた「愛は勝つ」は初回プレス3000枚。それがバラエティー番組のテーマ曲に選ばれ、人気に火がついた。「1万枚を越えたいというのが夢だったんですけど。あっという間だったね」。200万枚を超える大ヒットになった。

 音楽ディレクターとしてテレビ番組も担当。午前3時に出社する日もあった。30歳でBMGジャパンに転職。休みなく働いた。新人の発掘、育成に情熱を傾けたがヒット曲は出ない。90年代中盤からは、テレビ局のタイアップがなければヒットしない時代に入った。

 疑問が沸いた。「本当の音楽ファンがいなくなり、何かが崩壊してしまった。音楽ファンを育てる土壌もなくなってしまった。ミュージシャンも歌いたいことがないというか。『自分を信じて頑張ろう』という、だれでも書ける薄っぺらな内容になってしまった」。

 99年3月、35歳で会社を辞めた。「感性でやる仕事は35歳が限界」と踏ん切りをつけた。妻の有已子さん(45)も賛成した。家族4人でニセコに向かい、選んだのは農業だった。「音楽も農業も、何もないところからつくるのは同じ」。北海道にきて家族との触れ合う時間が増えた。それが一番だった。

 今でも毎日、ギターを弾く。「おれは1軍にいてレギュラーにはなれたけど。大記録は…、つくれなかったなぁ」とつぶやいた。都会での仕事をこう振り返る。「仕事なしには人は生きられない。ただ、喜びをあまり分かち合えず、独りよがりの生き方だった。今は買ってくれた人の『おいしい』という言葉がうれしい」。
 
 立場こそ変わったが、多田さんの「ものづくり」への情熱は変わらない。【上野耕太郎】

 ◆多田勉(ただ・つとむ)1963年(昭和38)9月3日、神奈川・綾瀬市出身。中学時代からレッド・ツェッペリンをコピーするなど、バンド活動をする。拓大に進学と同時に、音楽プロデューサー養成機関「MPI」の第3期生として基礎を学んだ。99年3月に北海道へ移住。現在は「ニセコ町多田農園」を経営。家族は妻と2男。


 ※注:多田さんとの交流についてKANさんはブログで言及しています。https://www.kimurakan.com/column/cbn016.php

連載(1)僕が網走に移住した理由/須藤元気インタビューUpdated: 2010/01/01 北海道の再発見を目的とした新連載「ノース・スタイル」が2010年1月1日よりスタートしました。第1回は09年5月に網走に移住した元格闘家で作家の須...
12/05/2012

連載(1)僕が網走に移住した理由/須藤元気インタビュー
Updated: 2010/01/01

 北海道の再発見を目的とした新連載「ノース・スタイル」が2010年1月1日よりスタートしました。第1回は09年5月に網走に移住した元格闘家で作家の須藤元気氏(31)が北海道の魅力を語った。

 格闘家時代、その変幻自在なスタイルから「トリックスター」と呼ばれた須藤が第2の人生の拠点に網走に選んだ。東京都の出身の男にいったい何があったのか。

 「移住の理由ですか? 昔からログハウスに住みたい夢を持っていました。写真も部屋に張っていたんです。ずっと前から。暖炉があって、ゆっくりと過ごせる場所を探してました。東京から近場も考えました。ですが、ログハウスはやっぱり北海道じゃないと思いまして。単純ですけど。妻の父親の実家が小清水町という縁もあり、移住しました」。

 現在は作家活動のほか、拓大レスリング部の監督、ミュージシャン、俳優などの顔を持つ。そのバイタリティーあふれる生活に北海道で過ごす時間は不可欠なものだった。

 「1カ月に1~2週間くらい、網走で暮らしています。本当に僕にとって貴重な時間です。薪ストーブの火を見ながら、猫と遊ぶ。原稿を書くのがメーンですが、それが終わると土をいじってますね。種を植え、花を咲かせ、実を付ける。その循環、自然のサイクルを感じるのが大切なんです。何て表現したらいいのかなぁ。出るときと引くときの感覚というのか。格闘技でいうところの間合いというのか。そういった地球と人間の間合いを感じさせてくれるんですね。北海道は」。

 多忙だ。そして、貪欲(どんよく)だ。高校時代から選択を迷ってきたミュージシャンの道に踏み出した。パフォーマンスユニット「WORLD ORDER」を結成し、昨年12月デビューした。昨年は拓大レスリング部を東日本学生リーグで初優勝へ導いた。

 「子供のころから住んでいましから東京も好きです。でもノイズが多い。小学生のときに北海道に旅行に来て『素晴らしい。ここは日本じゃない』と思ったんです。空気も違った。地図では遠いですが、実際には東京から網走は飛行機を使えばそれほど遠くない。とにかく、住みたいという明確な目標があったんです。そのほかも高2のころからスケジュールを組み立てていたんです。格闘家は25歳で引退し、28歳で本を出版するとも決めていた。僕は明確なゴールを持つことが大事だと思っています。その目標を達成するイメージ、その経過をディテールまで深く考えました。今は音楽のプロジェクトに人生をかけています」。

 自分の思うことを次々と実現させていく能力に舌を巻く。それには須藤氏自身が持つ考え方がある。

 「今、北海道も含めて不況だといわれています。ただし、この世界は自分の意識の投影されたものだと思うんです。だから周りを変えたいと思うなら自分が変わること。これが真理だと。不況にフォーカスを合わせず、どうやったら楽しく、素晴らしくなるか考えていくことが大切なのではないでしょうか。思考と言葉と行為が人間を作り上げる3つの要素。こうなりたいという自分を強く思うこと。気持ちの中に『無理かもしれない』という雑念があればそれが勝ってしまう。一流の人間は一流の人間であることに疑問を持たない。強さは経験ではなく意思だと私は思っています」。

 北海道ライフを「最高」と語る。取材後に「北海道とは」と尋ねると「う~ん、少し時間をください」と真剣な表情になった。数分後、06年に日本最大の書道展で入賞した筆さばきで色紙に書き上げた。「自然と調和の北海道」。須藤氏にとって北海道の自然は行動の源として欠かせないものになっている。

 ◆須藤元気(すどう・げんき) 1978年(昭和53)3月8日、東京都江東区生まれ。関東一高時代にレスリングを始め、拓殖短期大へ進学と同時に拓大レスリング部に入部。全日本ジュニア選手権優勝を果たした後、米国にわたりプロ転向。パンクラスやUFC、K―1など総合格闘技から立ち技まで幅広く活躍し、06年12月31日に突然引退。K-1通算2勝4敗、総合では15勝5敗1分け。08年11月に拓大レスリング部の監督に就任。09年5月、東日本学生リーグで初優勝し、最優秀監督賞を受賞した。現在は俳優、作家、書家などとして活動。06年に出版した「風の谷のあの人と結婚する方法」は19万部以上を販売し、ベストセラーを記録。09年9月にパフォーマンスユニット「WORLD ORDER」を結成し、12月デビューを果たした。家族は07年11月に結婚した妻。

住所

中央区北1条西10丁目1-11 HARADA-BLD. 4F
Sapporo-shi, Hokkaido
0600001

電話番号

0112616636

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