04/02/2026
夢もなく、恐れもなく
大学生のとき、初めてその足で会いに行った文化人が塩野七生氏だった。
書籍だけでなく色紙も持った自分に彼女は「私が色紙に書くのは、あなたが初めてよ」と言い、目の前で筆を執った。
それまで誰にもしたことがなかったといって記した言葉。
「夢もなく 怖れもなく」
受け取った瞬間、夢いっぱいの大学生だったので意味が全くわからなかった。
初めて色紙を書く相手であり、これから社会に出ようとする若者に向かって、「夢を持つな」とも取れる言葉を贈る。
しかし、その「意味が分からない」という強烈な違和感こそが、針のように脳の奥底に刺さり続けた。
分かりやすい言葉は消費され、角の丸い言葉は時間の流れで劣化する。だが、彼女が手渡してくれたのは、当時において理解を超えた、圧倒的に「解像度の高い」言葉だった。
「今は分からなくてもいい。いつか機能する武器を渡しておこう」。今はそんな解釈をしている。
それ以後「なぜ塩野七生は、初めての色紙にそう書いたのか?」という問いと格闘し続けてきた。最初の書籍のイザベラ・デステ関連なのはわかる。でもそれだけではない意味を探し続けた。
一本歯下駄GETTA、文化身体論、選手との挑戦。これまでの歩みのすべてに、この言葉の「真意」との格闘があった。
そして今、ようやくその輪郭が掴めている。
「夢」とは、多くの場合「こうあってほしい、こうなりたい」という願望だ。それは時に、目の前の現実を都合よく歪めるバイアス(曇り)になる。
「恐れ」とは、未知のノイズに対する拒絶であり、それは世界との接続を遮断する壁になる。
世界を認識そのものを覆すような発見、例えばアインシュタインが見た景色に、「生活を便利にしたい(夢)」や「常識が壊れるのが怖い(恐れ)」といった自我のノイズは存在しなかったはずだ。あったのは、人間的な都合を一切排した、純粋かつ冷徹な「観察」だけ。ピエールブルデューもそうだった。
「選手に勝ってほしい」「失敗したくない」。そんな指導者のエゴ(夢と恐れ)が消えたとき、初めて、目の前の選手の身、風といった「現象」と完全に同期できる。
愛犬と会話する時の脳の状態。モーツァルトがムクドリの声を聞いた状態。
それは、未来への期待も過去への不安も捨て、ただ「今、ここにある残酷なまでの複雑さ」と対峙し続ける、「夢もなく、恐れもない」境地だと今は思う。
夢がないから、世界をありのままの解像度で受信できる。
恐れがないから、世界にありのままの解像度で出力できる。
「分からなかったから、問い続ける」「問い続けるからこそ、実感する」
夢もなく、恐れもなく
当時、意味が全くわからなかった言葉は今は最も好きな言葉になっている。