日本ゴルフ殿堂

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2010年に偉業を成し遂げてきたプロゴルファーに敬意を表するとともに、歴史を後世に残すため設立された日本プロゴルフ殿堂を発展的に解消し、2025年4月より日本ゴルフ協会内に日本ゴルフ殿堂本部を設立し、その任を負うことになりました。ゴルフに携わる多岐にわたる分野から、ゴルフ界に貢献された方々を顕彰し、殿堂にその名を残し、その功績を讃え、語り継いでいこうとしています

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 86】●第1回関東関西対抗試合は男子関東大勝、女子は引き分けゴルフドム1927年10月と11月は合併号になっている。11月に行われた「関東関西対抗戦と、「関東対関西レディース競技」を特集している...
22/05/2026

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 86】

●第1回関東関西対抗試合は男子関東大勝、女子は引き分け

ゴルフドム1927年10月と11月は合併号になっている。11月に行われた「関東関西対抗戦と、「関東対関西レディース競技」を特集している。関東と関西の当時の「ライバル対決」の様子を紹介したい。
11月2日に茨木CCでまず関東対関西レディース競技が行われた。
「代表的婦人ゴルファーのトーナメントのない今日、この試合は唯一の晴れの試合」というのが、当時の大会の位置づけになっている。
試合は東西8人ずつが出場。午前はシングルス8試合、午後はダブルス4試合が行われた。シングルスで優位に立ったのが関西。結果だけ記載されているが、5アップ、2ダウン、1オールスクエアで、トータルで関西が3アップした。「(第1試合の)三井夫人(関東)と西村夫人(関西)の対戦は両軍の主将株のみならず、日本チャンピオンを決する観あり」と評している(西村夫人の勝ち)。
ダブルスでは一転、関東が奮起した。関東の三井、赤星文両夫人が関西の西村、山口両夫人に勝利するなど、関東の3アップ、1オールスクエアで圧勝。3-3のタイとなり、朝香、久邇両宮妃から下賜された優勝杯は「保留」となった。
11月6日には、同じ茨木CCで男子の関東対関西対抗戦が行われた。その直前、11月3日に行われた関西オープンに参加した関東勢には大谷光明主将や川崎肇、赤星四郎、六郎らトップアマが参加している。関西勢には高畑誠一、ゴルフ設計家で垂水、鳴尾などを手掛けたクレーン兄弟らが名を連ねている。
男子は10人ずつが参加。午前はダブルス5試合、午後シングルス10試合が行われた。ダブルスでは赤星六、大谷組、川崎、赤星四組が勝つなど関東がトータル3アップとリードを奪った。シングルスでも関東勢が関西勢を圧倒し、7アップ、3ダウンとし、トータル7アップで関東の勝利となった。
同誌のまとめとして「かくして第1回関東関西対抗試合は関東方の大勝に帰したが、関東方が古いゴルファーを多く持つ点からみて、日常の練習ぶりからみて当然の結果であり、必然の結果であろう。関東方がベストメンバーでまじめなプレーぶりを見せたのは、関西方の徳とすべき点であらる」と関東方をほめ「しかし優秀なプロフェッショナルを持つ関西に優秀な選手が出ないわけがない」と、関西の今後に期待もしている。
関東の「古いゴルファ―」というのは、ゴルフ歴の長いベテランという意味だろうか。そういうゴルファーは関西の方が多そうに思うのだが、世代交代中だったのだろうか。
今でも様々なスポーツで見られる関東、関西の「ライバル」関係、100年前からゴルフでも始まっていた。
(文責・赤坂厚)

★GOLF DOM(ゴルフドム) 1922年11月創刊。阪神ゴルフを引き継ぎ、日本初の本格的な全国ゴルフ専門雑誌。創刊当初は、日本初のプロゴルファー福井覚治が福井覚次郎名で編集兼発行人となっていた。
※写真は「ゴルフドム」1927年10月&11月合併号(JGA所蔵)
※本稿に関わる情報や資料をお持ちの方はぜひお寄せください
※引用部分一部を現在の漢字に変換します
※一部敬称は略します

【日本女子の海外挑戦記・平成編3】●米挑戦4年目で小林浩美が念願の初優勝1990(平成2)年に日本人選手初の米女子ツアールーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた小林浩美だったが、2年目からは思うような成績を残せずにいた。1年目に60位だった賞金ラ...
15/05/2026

【日本女子の海外挑戦記・平成編3】

●米挑戦4年目で小林浩美が念願の初優勝

1990(平成2)年に日本人選手初の米女子ツアールーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた小林浩美だったが、2年目からは思うような成績を残せずにいた。1年目に60位だった賞金ランキングは2年目63位、3年目80位と後退。4年目の1993(平成5)年も春先は5戦して42位が最高と苦しんでいた。

原因のひとつは1年目にループを描くような個性的なスイングを直さないと通用しないと痛感し、大改造に踏み切ったことだった。目指すスイングはなかなかフィットしないまま、月日が流れていた。

1993年4月、アトランタでの試合で8位になった。小林にとって10カ月ぶりのトップ10入りだった。

ここから、自身初めての4試合連続トップ10入りを果たす。新スイングが徐々に自分のものになってきていた。

7月、小林はニューヨーク州のワイカギルCCで開催されるJALビッグアップルに臨んだ。初日から69、71、69と安定したプレーを続け、通算4アンダーパーで首位のベッツィ・キング(米国)から1打差の2位で最終日に入った。

実力者のキングが苦戦するのを尻目に、小林はアウトを2バーディー・ボギーなしで回って首位に立つ。インでも1バーディー・1ボギーと堅実なプレーを続けて通算6アンダーパー。2位に上がってきたロージー・ジョーンズ(米国)に4打差をつけてついに米女子ツアー初優勝をつかみ取った。ツアーメンバーとしては樋口久子、岡本綾子に次ぐ3人目の快挙である。

苦しんだ時期が長かった分、喜びも大きい。小林の目から涙がとめどなくあふれていた。

小林は翌週の全米女子オープンでも存在感を示す。3日目を終えて2打差2位につけ、最終日は最終組でプレー。終盤崩れて4位に終わったが、一時は首位に並んでメジャー制覇の期待を抱かせてくれた。

この1カ月後、小林は早くも2勝目を挙げる。ミネソタクラシックで最終日に65を叩き出して6位から追いつき、プレーオフでシンディ・ラリック(米国)を下してつかんだ勝利だった。今度は、涙はない。トレードマークの笑顔がはじけていた。

小林はこの年、キャリアベストの賞金ランキング8位に入る。以降はトップ選手の1人として米女子ツアーで活躍し、通算4勝をマーク。欧州でも1997(平成9)年にエビアンマスターズ(現在の女子メジャー、エビアン選手権。当時は欧州女子ツアーのみの大会だった)を制している。
(文責・宮井善一)

※写真はJALビッグアップルで米女子ツアー初優勝を飾り優勝カップを高々と掲げる小林浩美(提供:スポーツニッポン新聞社)

2013年度第2回日本ゴルフ殿堂(当時日本プロゴルフ殿堂)顕彰を受けた女子プロゴルファー樋口久子のゆかりの品々を展示する「チャコ ヒグチ ミュージアム(Chaco Higuchi MUSEUM)」の開館記念式典が4月15日、長野県松本市の松...
08/05/2026

2013年度第2回日本ゴルフ殿堂(当時日本プロゴルフ殿堂)顕彰を受けた女子プロゴルファー樋口久子のゆかりの品々を展示する「チャコ ヒグチ ミュージアム(Chaco Higuchi MUSEUM)」の開館記念式典が4月15日、長野県松本市の松本浅間カントリークラブ(CC)で行われた。
同ミュージアムは、同CCのクラブハウス2階の一角に設けられている。樋口はじめ、関係者がミュージアム入口前で、開館を祝うテープカットを行い、知人や関係者らを集めて記念式典が開催された。
ミュージアムには、国内69勝、海外3勝と、通算72勝を挙げた樋口のこれまでの足跡を示すゆかりの品や写真など約500点を展示している。
2026年でプロゴルフ生活60年を迎えた樋口の軌跡を紹介するコーナーでは、1967年第1回プロテスト合格前に中村寅吉(第1回殿堂入り)に師事していたころからの写真などが飾られ、第1回の1968年から7連覇を果たした日本女子プロの優勝トロフィーが6つ(1つは世界ゴルフ殿堂に寄贈)が並べられている。
日本人初の海外メジャー優勝となった1977(昭和52)年の全米女子プロゴルフ選手権優勝のコーナーには、特別に取り寄せてくれた優勝した時のスコアカードの展示もある。また、使用クラブの展示のコーナーには全米女子プロ優勝時に使用していたパターなど、貴重な品々を見ることができる。
日本のプロゴルファーとして初めて受けた文化功労者の顕彰状や、世界ゴルフ殿堂、日本ゴルフ殿堂(当時日本プロゴルフ殿堂)顕彰のトロフィー、その他多くのトーナメントの優勝トロフィーなどがふんだんに飾られている。
報道陣に1つ1つの展示コーナーを説明して回っていた樋口が、1枚のポスターを前ににこやかな表情を見せた。1990(平成2)年に行われた「帝産・クリナップ ビューティーズゴルフトーナメント」の大会ポスターで、大きく描かれた女の子は、当時2歳の長女、大塚久仁子さん。ミュージアムの館長を務めることになっている。
この松本浅間CCにミュージアムをつくることになった経緯は、37年前に同CC開場式に樋口が出席したのが縁の始まり、2013年から同CCの理事を務めている樋口の申し出に同CCがミュージアム建設委員会を設け、会員から寄付金を募るなどし、今回の開館にたどり着いた。
展示に当たっては、自宅や都内の事務所に飾ってあったものや、倉庫にしまってあったものなどを運んだ。「トロフィーはもっと真っ黒だったので磨きました」という。また、東日本大震災の際に破損してしまったトロフィーなどもあったという。こうした品々を見てあらためて「いろいろ思い出します。思い出はそれぞれにありますが、特に海外での優勝、初めて勝ったオーストラリア、欧州、米国の優勝には思い出があります」と話した。
ミュージアム名誉館長に就いた樋口は開館記念式典で「立派なミュージアムができ、感謝いたします。私の60年間のプロ生活がぎっしり詰まっています。見ていただいて、こういう人間がいたんだということをお伝えいただければ」とあいさつした。
ミュージアムの開館時間は、ゴルフ場オープン中の午前9時~午後4時で、入場は無料。
(文責・赤坂厚)

【2026年度顕彰者紹介4】プレーヤー部門 尾崎将司(おざき・まさし)              1947~2025年          1964 年春、徳島海南高校のエースとして選抜高校野球大会を制し、翌年、プロ野球・西鉄ライオンズに入団...
04/05/2026

【2026年度顕彰者紹介4】

プレーヤー部門
 尾崎将司(おざき・まさし)
              1947~2025年          

1964 年春、徳島海南高校のエースとして選抜高校野球大会を制し、翌年、プロ野球・西鉄ライオンズに入団。実働 3 年で退団してプロゴルファーを目指し、1970 年にプロ入りした。

大きな体と卓越した飛距離で“ジャンボ”の愛称が定着。ハイペースで勝利を重ねてゴルフファンをひきつけ、プロゴルフトーナメントの人気を高めていった功績は大きい。

初優勝した 24 歳(1971 年)から 55 歳(2002 年)まで、ほぼ毎年のように優勝し、その数は国内 112、海外 1 の計 113 勝(うち、1973 年ツアー制度施行後の賞金ランキング対象競技は 94 勝)。賞金王には 12 回輝いた。

共に、他の追随を許さない歴代 1 位の記録である。

【2026年度顕彰者紹介3】貢献部門 大谷光明(おおたに・こうめい/こうみょう)                    1885~1961年  浄土真宗本願寺派第 21 代法主の三男。英国留学中にゴルフを始め、1922 年の日本アマチュアゴ...
29/04/2026

【2026年度顕彰者紹介3】

貢献部門
 大谷光明(おおたに・こうめい/こうみょう)
                    1885~1961年  

浄土真宗本願寺派第 21 代法主の三男。英国留学中にゴルフを始
め、1922 年の日本アマチュアゴルフ選手権で優勝している。摂
政宮(後の昭和天皇)のコーチも務め、来日中の英国皇太子との
親善マッチでは摂政宮とペアを組んだ。

まだ英国人が国内ゴルフ界の主導権を握っていた時代に日本人
によるゴルフの組織づくりを提唱し、JGA創立に尽力。JGA
誕生後はコミッティ、チェアマン、理事長、会長と要職を歴任し
て初期の日本ゴルフ界をけん引した。

中でも力を注いだのがゴルフルールの邦文化。1935 年に邦文の規則が完成した。

ゴルフコース設計でも力を発揮し、川奈ホテルゴルフコース大島コース、東京ゴルフ倶楽部、名古屋ゴルフ倶楽部和合コースなどを手掛けている。

【2026年度顕彰者紹介2】貢献部門 新井領一郎(あらい・りょういちろう)                     1855~1939年群馬県の豪農・星野家で生まれ、12 歳で生糸商の新井家の養子となる。1876 年、生糸輸出のために渡米し...
25/04/2026

【2026年度顕彰者紹介2】

貢献部門
 新井領一郎(あらい・りょういちろう)
                     1855~1939年

群馬県の豪農・星野家で生まれ、12 歳で生糸商の新井家の養子と
なる。1876 年、生糸輸出のために渡米して成功。米国ニューヨー
クを拠点に日米交流にも大きな役割を果たした。

ゴルフと出合ったのは体調を崩して静養していたノースカロライナ州パインハーストで 1902 年のこと。米国で初めてゴルフをした日本人だと推測されている。

熱中した新井はニューヨークに戻ると米国駐在中の日本人に次々にゴルフの面白さを説き、ゴルフ仲間を増やしていった。その中には東京ゴルフ倶楽部創設の中心となった井上準之助や後に JGA 会長となる森村市左衛門、軽井沢ゴルフ倶楽部発起人のひとりである田中実ら日本ゴルフの基盤を築いた人物が多くいる。

まだゴルフとはほとんど縁がなかった日本人にゴルフを広めたことが黎明期の日本ゴルフ界の成長を促したのである。その功績は大きい。
                      (文中敬称略)

【2026年度顕彰者紹介1】貢献部門 アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)                      1846~1918年英国ロンドンで生まれ、貿易関係の仕事に就く。1868 年に来日し、...
22/04/2026

【2026年度顕彰者紹介1】

貢献部門
 アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)
                      1846~1918年

英国ロンドンで生まれ、貿易関係の仕事に就く。1868 年に来日し、神戸を拠点にお茶や生糸の貿易など事業家として成功。六甲山に最初に別荘を建設するなど、六甲山の開発にも尽力し、「六甲山の開祖」と称されている。

1898 年、ゴルフ好きの英国人の友人との語らいの中でゴルフコー
ス造りを決意。グルーム自身はゴルフをしたことがなかったが、私財を投じて取り組んだ末、1901 年秋に最初の 4 ホールが完成した。これが日本における最初のゴルフコースである。

1903 年には 9 ホールに拡張され、我が国最初のゴルフ倶楽部である神戸ゴルフ倶楽部が発足した。

今では大きな流れとなっている日本ゴルフの最初の一滴を生み出した人物として、その存在は永遠に語り継がれるべきものである。

【第7回日本オープンゴルフ選手権(1933年)】●師弟対決を制して中村兼吉が大会初制覇2021(令和3)年に行われた東京2020オリンピックゴルフ競技の会場になった霞ヶ関カンツリー倶楽部が開場したのは1929(昭和4)年のことである。当初は...
13/04/2026

【第7回日本オープンゴルフ選手権(1933年)】

●師弟対決を制して中村兼吉が大会初制覇

2021(令和3)年に行われた東京2020オリンピックゴルフ競技の会場になった霞ヶ関カンツリー倶楽部が開場したのは1929(昭和4)年のことである。当初は18ホール。3年後に新しい18ホールが完成し、我が国初の36ホールを有する倶楽部となった。

従来の18ホールは東コース、新しい18ホールは西コースと名付けられた。オリンピックが開催されたのは東コースである。

霞ヶ関で初めてプロのトーナメントが開催されたのは1933(昭和8)年だった。9月末に東西対抗が行われ、10月6日からは本選手権の会場となった。ともに、東コースで行われ、6700ヤード、パー74という設定だった。

第1ラウンドは午後から雨になった。トップに立ったのは3アンダーパー、71で回った安田幸吉。2位の中村兼吉に4打差をつける会心のラウンドだった。

第2ラウンド、安田は76とやや乱れたが通算1アンダーパー、147で首位を守った。2位は1打差で中村が続く。3位は戸田藤一郎の150。陳清水と林万福が152で4位に並んだ。

安田は日本オープンで第2回大会から3年連続の2位。日本プロと関東プロでも2位が1回ずつあった。黎明期の日本を代表するプレーヤーでありながら無冠に甘んじていた安田に絶好のチャンスが巡ってきたわけだ。

追う中村は22歳。安田は師匠にあたる存在だ。経験では師匠にはかなわないが、前年、そしてこの年と関東プロを連覇中。勢いでは上回っていた。

36ホールの最終日は小雨が降り続いた。無冠返上を目指す安田は8番までパーを続けたが9番でボギーが先行。続く10番では3パットでダブルボギーを叩いてしまう。17番でようやく初バーディーが来たが第3ラウンドは78と苦戦した。

2位で出た中村は1番ボギー、2番ダブルボギーといきなりつまづいた。それでも立て直して第3ラウンドは75。安田に代わって首位に立った。3位にいた戸田は81と崩れて優勝争いから脱落。75で回った陳が3位に浮上していた。

最終ラウンド、中村は3番、5番でバーディーを奪い、アウトを2アンダーパー、35で折り返す。安田は41と崩れ、陳も38とスコアをひとつ落とした。残り9ホールとなった時点で中村のリードは7打。独走態勢を築いていた。

中村は最後の9ホールも3バーディー、2ボギーと快調にプレーして最終ラウンドは71。2位に9打差をつける通算2アンダーパー、294で本選手権初優勝を飾った。

日本ゴルフ界の重鎮である大谷光明がゴルフ誌の『ゴルフドム』に観戦記を寄せており、その中で中村のアプローチとパッティング、さらには精神面の強さを高く評価している。

72ホールを終えた翌日、2位で並んだ陳とラリー・モンテスによる18ホールの2位決定プレーオフが行われている。結果は71で回ったモンテスの勝利だった。東京2020オリンピックでは男子が銅メダル、女子が銀メダルをかけたプレーオフが実施されたが、88年前にも同じコースで「銀メダルプレーオフ」が行われていたのである。 
(文責・宮井善一)

※写真は優勝カップを持つ中村兼吉(ゴルフドム1933年11月号=JGA所蔵=より)

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 85】●いつの時代も賭けの是非は議論の的になるようです100年前も、ゴルフの「betting(ベッティング、賭け)」について、誌上論争があった。ゴルフドムでは1927年7月号から9月号まで、be...
06/04/2026

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 85】

●いつの時代も賭けの是非は議論の的になるようです

100年前も、ゴルフの「betting(ベッティング、賭け)」について、誌上論争があった。ゴルフドムでは1927年7月号から9月号まで、bettingについて書かれている。
議論のきっかけは7月号の「19th Hole」で「bettingが盛んなために、英国より米国、関西より関東がパッティングがよい」という趣旨の記事が掲載された。
8月号ではケーワイ生の署名で「Long Putt,Short Putt漫談数々」というコラム集の中に「Bettingに就いて」というコラムを寄せた。19th Holeの記事に対して「大きなbettingをする人ほどパットが上手で、米国人が英国人より、関東が関西よりベットが大きい、ということになりはしませんか?」と切り出し「関西でも大きなbetを好む人でパットが下手な人は多数います」と、bettingとパットの関係に疑問を呈する。
「私はbetが嫌ではありませんし、全廃論者ではありません」「ゲームをエンジョイせずに対戦相手のplayをスポイルする(台無しにする)ことに腐心している人も往々見受けるそうですが、bettingもそこまで行くとお話になりません」と、ゴルフをする目的がbettingになることを断じている。その上で「マッチプレーよりメダルプレー(ストロークプレー)でbetした方が慎重にパットする機会が均等で一般にパットが進歩します」と勧めてもいる。
その上で「(記事も奨励の意味ではないと思いますが)人聞きの良くないbettingの話はなるべく言わないように、内緒にしておいた方が紳士的gameのゴルフに傷をつけなくてよいのではないでしょうか」と結んでいる。
続く9月号。今度はA.P.生の署名で「Bettingに就いて」という独立したコラムに。「ケーワイ氏が前号でbettingというような事柄は人前で大きな声で話すべきではないと述べられた」「行われているとすれば、それが果たして悪いことかどうかを少し考えてみる必要がある」として、自身の見解を述べている。
簡略すると、bettingが悪いと思う人は、gamblingと同一視しているようだが、bettingとgamblingには明らかな違いがある。gambling、ここではカードやサイコロを例に挙げて「チャンスが運命を決する」と、運任せでお金を賭けることとしている。
ゴルフの場合は勝敗を決するのはskillであり、bettingはskillに対する「懸賞」である点がgamblingと違い、カップやトロフィー同様に勝利への懸賞法であり、必ずしも非難するに当たらないと、bettingをどちらかというと擁護している。
bettingをすることですべてのショットをおろそかにできなくなる。bettingをすることで自分のskillを出せないこともあれば、skill以上のものを出せる場合もある。「要するに弊害が生じやすいにしても効能がある以上は一概に排斥するにも及ばない。ただ、公衆の面前で広言すべきものでもないであろう。ケーワイ氏の言わるるように内緒にしておく方が紳士的gameのゴルフに傷をつけぬことになるであろう」。
ゴルフのゲーム性や楽しさを損なわないなら、betはプレーに緊張感や真剣さをもたらしてくれそうだ、というようなことを、100年前のゴルファーは公開で論じていた。しかも同じ誌面で様々な人が論じる形になっている。
さて、みなさんはどう思います?
(文責・赤坂厚)

★GOLF DOM(ゴルフドム) 1922年11月創刊。阪神ゴルフを引き継ぎ、日本初の本格的な全国ゴルフ専門雑誌。創刊当初は、日本初のプロゴルファー福井覚治が福井覚次郎名で編集兼発行人となっていた。
※写真は「ゴルフドム」1927年9月号(JGA所蔵)
※本稿に関わる情報や資料をお持ちの方はぜひお寄せください
※引用部分一部を現在の漢字に変換します
※一部敬称は略します

【第6回日本オープンゴルフ選手権(1932年)】●宮本が大逆転で3度目の日本一に輝く 10月8、9日に1日36ホール計72ホールで行われた。舞台は現在の茨木CC東C。当時は茨木コース、茨木リンクスなどとも表記されている。 ゴルフドム誌11月...
30/03/2026

【第6回日本オープンゴルフ選手権(1932年)】
●宮本が大逆転で3度目の日本一に輝く

 10月8、9日に1日36ホール計72ホールで行われた。舞台は現在の茨木CC東C。当時は茨木コース、茨木リンクスなどとも表記されている。
 ゴルフドム誌11月号に詳細が掲載されている。「茨木コースはアリソン氏と加賀正太郎氏自身の考案に基づき巨費を投じて昨年来改造されつつあったが見事に完成してこの大会を迎へ、日本ゴルフの第一人者を選ぶにふさわしいファインテイストを提供した」(以下一部抜粋、現代語)とある。
 新聞も大会の記事を大きく掲載するようになってきた。10月9日付大阪朝日新聞による第1日の様子では「雨に禍されて 好スコア無し」という見出しで「競技開始前から小雨が降ったりやんだりしてせっかくのベストコンディションのコースは湿気を多分に含んだため、ボールがスリップして」「グリーンが短く刈られていたのでアプローチとパットに狂い多く」と書かれている。
 午前は、前年覇者の浅見緑蔵と村木章が73で首位に立った。安田幸吉と台湾の林萬福が74で続いた。午後はアマチュアの鍋島直泰が73でベストスコアをマーク。安田が74、村木が75で回り、第1日は安田と村木が148で首位に並んだ。「村木が衆人の予想以上に活躍して第1位に入選するのは偉をするに足る、また安田は毎回惜しくも優勝を逸していたもので、その健闘ぶりは賞すべきだ」(大阪朝日新聞)とある。
 ゴルフドム誌は「昨年は浅見が137という破天荒なスコアを出しアマチュアは全部ふるい落とされたことはまだ記憶に新しいところであるが、148は167以上に可能ならしめる(首位と20打差以内が最終日進出)こととなり、アマチュアは158の鍋島氏のほか、赤星四郎氏155、成宮(喜兵衛)氏163で二日目プレーする資格を得た」と記している。
 最終日(2日目)、秋晴れになった。午前は村木が好調を維持して74で回って222で単独首位に立った。安田は76で2打差の2位。過去2度優勝の宮本留吉が75で6打差4位に浮上していたが、観衆も関係者も村木と安田の一騎打ちと見ていた。
 午後、上位2人に陰りが見えた。村木は4番でバンカーに入れてダブルボギーにするなどアウト41と崩れた。安田も7番でOBを出すなど42をたたいた。ここで猛然と追いかけたのが宮本だった。5番までに3つスコアを伸ばした。その後3ボギーでアウト36だったが、村木に1打差、安田には1打リードする2位に浮上した。
 インに入って村木、安田とも復調をみせる。村木は13番までに3バーディ、安田も2バーディで盛り返した。2人の競り合いは最後まで続き、村木は最終18番で3パットして77となり、合計299、安田は同じく77で301と2打差でホールアウトした。
 宮本は2人より後でスタートした。15番まで1つ伸ばしていた。ゴルフドム誌の宮本の感想にはこうある。「16番のティーであとのホールを3、4、5で行けば勝てると言われたので、一つその通りにやらねばならぬと勇気が出てきました」。
 パーの設定は書かれていないが、詳細を読んでわかるのは16、17番パー4、18番パー5だった。16番で8mを入れて、その通りのバーディ3を取る。17番、ティーショットを左に引っ掛けてマウンドの斜面に止まった。きつい左足下がりに「金(アイアン)で打てないことはありませんが低い球しかでないことは分かり切っていました。低い方のグリーン(手前のサブグリーン)を狙ってスプーンを出しました。このスプーンは特別にフェースの広いもので、ダウンブローにひっぱたいたんです」。ボールはサブグリーンを越え、グリーン左のこぶの近くに止まり、そこからのアプローチを2ヤード(約1.6m)に寄せたが、カップに蹴られてボギー5。勝つには18番でバーディが必要になった。ティーショットを右バンカーに入れたが、3番アイアンでピンまで残り100ヤードまで持ってきた。第3打を2ヤードにつけて劇的なバーディの4。午後は70(36、34)で計298。村木を1打逆転して、2年ぶりの大会3度目の優勝を果たした。東京日日新聞には「宮本俄然奮起 遂に覇者の栄え」という見出しが躍る。
 ゴルフドム誌での優勝後の感想。「木(ウッド)が荒れるので今年はとても駄目と思っていました。2日目の午後は、60台か90かという決心で出かけました。浅見も安田も私も今年は当たらなかったので村木には非常にいいチャンスでしたが、私がラッキーだったのでしょう。思いがけぬ当たりが最後に出たのは全く不思議なほどです。すべてが私にラッキーであったように思われます」。
 大阪朝日新聞では最後に7位に入ったアマチュアの鍋島を「万丈の気を吐いていた鍋島は午前十六、十七、十八でミスしたのがスコアを大きくしたが、そのプレーは激賞に足るものがあった」と称賛している。
(文責・赤坂厚)

※写真はゴルフドム1932年11月号(日本ゴルフ協会所蔵)と1932年10月19日付東京日日新聞

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 84】●B・ジョーンズがセント・アンドリュースでの全英を制して2連覇を達成ゴルフドム1927年8月号は、ロバート・トレント・ジョーンズ、ボビー・ジョーンズの記事が3本立てで、特集号のような感じに...
23/03/2026

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 84】

●B・ジョーンズがセント・アンドリュースでの全英を制して2連覇を達成

ゴルフドム1927年8月号は、ロバート・トレント・ジョーンズ、ボビー・ジョーンズの記事が3本立てで、特集号のような感じになっている。日本でもボビー・ジョーンズは人気だったのだろう。3本の記事を要約してみます。
1本目は1927年、セント・アンドリュースで行われた全英オープンについての記事。ジョーンズは先に行われた全米オープンで3連覇を逃し、全英には出場しないことにしていた。しかし、思い立ってニューヨークからロンドン行きの船に出港間際に乗り込み、1週間前にセント・アンドリュースに到着。練習をこなして本戦に臨んだ。
第1ラウンドで68(当時パー73)の好スコアをマークして首位に立ち、第2ラウンド72、第3ラウンド73、最終ラウンド72で4日間合計285をマークして優勝、2連覇を飾った。
当時、285というスコアが驚異的だった。それまでの全英の最少ストロークは1908年ブレイドと1926年ジョーンズ本人の291。一気に6ストロークを縮め、コースに来た2万人のギャラリーを熱狂させた。
その興奮ぶりを描いたのが2本目の記事。K.Y.生の署名なので、伊藤長蔵によるものだ。ジョーンズの全英オープン2連覇が決まると「常に熱せざる英人が、Bobbyを肩に乗せて熱狂せる有様は、海の中にコルクが浮いているようにBobbyの頭のみが人並みの中に見られたという」「Bobbyは警官の警護でホテルにたどり着いたが、群衆は3時間あとまで退散しなかった」と、伝聞ではあるだろうが、興奮ぶりを表現している。
3本目のタイトルは「Calamity Jane(カラミティ・ジェーン)」。ジョーンズ愛用のパターの話のコラムになっている。3月末に行われたSOUTHERN OPEN CHAMPIONSHIPについての話だ。
「アトランタの(Athletic Club)East Lake courseはジョーンズのホームコースで、春に大競技会が行われた。全米オープンほどの顔ぶれが集まったが、ジョーンズは前年11月から2月までゴルフをしていなかったので辛かった。そこで10日間はランチも取らずに練習して大会に備え、4ラウンド平均70.25のスコアで優勝した。特に第2ラウンドは66(パー70)という見事さであった」と、その際の自筆のスコアカードが掲載されている。
次に、ある出来事が明かされている。「ジョーンズのクラブを修復しているVictor EastがStewart Marden(Maiden)の店にいるとき、ジョーンズが71を出して入ってきて“Calamity Jane”を取り出し、膝で折ろうとした。Victorが止めると、ジョーンズは“シャフトを替えようと思うんだ。こんなシャフトでパットできるかね”と言った。Victorが“このChampionshipが済んでから”と注意して“お前さんが知っている悪魔より知らぬ悪魔の方が恐ろしいということを忘れなさんな”と付け加えた。
大会で平均70.25で回れたのは、パットが良かったからである。大会の2日後、シャフトを替えたか尋ねると“イヤ。しかしやがて替えねばなるまい”と答えたそうである」。記述はないが、71を出したのはたぶん第1ラウンドで、翌日66を出してそのまま替えず、というところだろうか。
ジョーンズは若いころは短気だったといわれているが、メジャーに勝っているころでも怒りに任せてパターを折ろうとしたことがあったらしい。負けず嫌いと思わせる言い訳までしている。球「聖」といわれながらも、人間くさいところも持ち合わせていたようだ。
(文責・赤坂厚)

★GOLF DOM(ゴルフドム) 1922年11月創刊。阪神ゴルフを引き継ぎ、日本初の本格的な全国ゴルフ専門雑誌。創刊当初は、日本初のプロゴルファー福井覚治が福井覚次郎名で編集兼発行人となっていた。
※写真は「ゴルフドム」1927年8月号(JGA所蔵)
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